『僕たちは言葉について何も知らない 孤独、誤解、もどかしさの言語学』(小野純一 著)ニューズピックス

 10代の頃、会話で何より苦手だったのが天気の話題だった。「空を見れば明らかなことを、なぜ人と話さなくてはいけないのだろう?」とどこか苦痛に感じていた。場の空気を読むことも苦手で、教室でずっと気を張っていないと、相手の会話に合わせることができなかった。

 本書によれば、あいさつや世間話は〈「私はあなたの存在を受け入れる」という意思表示の働きを担〉うという。〈「私はあなたがいることを認知しました」という客観的な知覚に加えて、友好や好意を示す〉らしい。この言葉を、かつての自分に手渡したくなる。なるほど、言葉は単なる情報伝達の道具ではなく、交わすことで相手の存在を認め、〈お互いがここで生きることを確かめあう証〉になっているのだ。

「言語学」と聞くとハードルが高く感じるが、本書は、そうした言葉につまずいている若い方にはもちろん、「適切な謝罪」に悩む社会人の方にもぜひ手に取ってほしい。言葉によって生じる誤解やもどかしさ、言葉が「わかる」とはどういうことか、自分らしい表現の生み出し方、そして孤独との向き合い方に至るまで、「言葉」を通して、自分の人生を見通せるような一冊だ。

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 言葉は確かに誤解を生む。自分の発した言葉を相手がどのように受け取るか予測できない。「どうせわかってもらえない」と、伝えることに後ろ向きになってしまう時もある。

 だが、それでも大切なのが「センシティブでありたい」という態度を貫くことだ。言葉の微妙なニュアンスに敏感になること。自他の心の動きを感じ取り、自分が伝えたいこと、言葉の選び方に繊細であろうとすること。すると、言葉が自分の人生に寄り添ってくれるようになる。

〈自分の生きかたに対して「センシティブになる」こと〉〈自分の生活を丁寧に送るように、言葉の意味に関して気づかうということ〉。本書で最も印象的だったのは、言葉と人生を諦めない、その誠実な態度である。何より言葉の先には、それを受け取る「他者」がいる。SNS上で拡散される差別的言動、ヘイトを扇動するような投稿に乗っかる前に、「待てよ」と立ち止まることができるかどうか。それもまた、我々の「センシティブ」な態度にかかっているのではないか。

〈つまり私たちは、言葉の中の散歩者です。誰もが言葉の探求者です。誰もが自分の経験や考えに当てはまる言葉を探します〉〈私たちは自分の生と言葉とを繰り返すこと、重層化することで、自分の日々を深みと重みのある生へと生まれ変わらせます〉

 言葉はあまりに複雑で不完全な道具である。しかし「伝えること」の心細さに、本書は限りなく寄り添い、心強い味方となるだろう。

おのじゅんいち/1975年、群馬県生まれ。自治医科大学医学部総合教育部門哲学研究室准教授。専門は哲学・思想史。著作に『井筒俊彦――世界と対話する哲学』等。本書が初の一般向け著作。
 

ふづきゆみ/1991年、北海道生まれ。詩人。18歳で中原中也賞を受賞。エッセイ集『洗礼ダイアリー』、詩集『大人をお休みする日』等。