5000戸を超える都営マンモス団地はなぜできた?

 ただし、この団地にはもっと直截的な目的があったようだ。1960年代前半、当時の村山町と立川市に跨がる一帯に巨大な工場が現れた。プリンス自動車、現在の日産自動車の村山工場だ。そして、この工場で働く人たちが暮らす場所を、という意味合いもあって村山団地が計画されたのである。

 

 団地ができて、働く場所も近くにあって。モノレールはまだまだ開業していなかったが、団地の中に商店街があるし、その西側の団地西通り沿いにもいくつかの商店街が生まれた。

 

 それだけ揃えば、日常の生活に不便することはないだろう。都市部に出ようと思えば路線バスも通っているし、日産自動車で働く人ならば、きっとマイカーも持っていたに違いない。

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 そんなわけで、日産自動車の工場と村山団地によってこの一帯の人口は急増した。団地ができて数年後、1970年に村山町は武蔵村山市に、大和町は東大和市に“昇格”している。

 

 上北台団地や、また新青梅街道北側の芝中団地といった団地が生まれたのも1970年代初め。日本が右肩上がりの高度経済成長期、いまの上北台駅周辺は一気に都市化が進んだのである。

 では、それ以前はどんな風景が広がっていたのだろうか。そのヒントは、新青梅街道を跨いだ北側にあった。