3兄弟の遊び場は父親が経営していた工場で、旋盤(切削加工をする工作機械)やボール盤(穴をあけるための工作機械)を使っていろいろなものを作った。『PS純金』で披露したDIYの腕も、この時に育まれた。
中学、高校は野球に熱中しながらも、釣りと料理好きは変わらず、料理に使う魚の研究をしたいと四国の大学へ進学する。春から秋にかけては、毎日のように海に出て魚を捕る漁師のような生活だったといい、研究の傍ら、捕った魚を料理して食べる日々を過ごした。
「魚って食べているものによって味が変わるんです。だから、魚を捕ってお腹を開いて、何を食べているのか調べていました。北海道の知床で、鮭の調査もしてね。鮭は川に上がってきたやつより、海にいるほうがおいしいんです」
「大卒シェフ」はいじめの対象になった
釣りを続けるなら漁師、研究を続けるなら大学院という選択肢もあったなかで、しおりさんは大学卒業後、料理の道に進む。
「知り合いのコックさんからフランス料理のいいシェフがいるからって紹介されて、東京の自由が丘にあったフレンチレストランに就職しました。当時は今以上に、フレンチのシェフってかっこいいイメージがあったからね。父親は私が料理人になることに大反対でしたよ。『大学を出てまで料理人になるやつなんかいない!』って。まだそういう時代だったんです」
実際、そのフレンチレストランにいる同世代の料理人たちはみな中卒や高卒で「なんで大学を出てこんなとこに来るんだ」と白い目で見られた。同い年の場合、料理人としてのキャリアは高卒なら4年、中卒なら7年先輩にあたり、確かに技術には大きな差がある。
そんな環境で「22歳の新人」は、いじめの対象になった。無理難題を押し付けられ、それができないと罵倒され、陰口を叩かれ、辛く当たられた。朝一番に10キロ分の玉ねぎを剥いておけと指示され、必死に終えると「これじゃダメだ」とすべて捨てられたこともある。それでも、挫けなかった。
「自分も好きで踏み入れた世界ですし、簡単には挫けませんでしたよ。『この人たちはなにをやっているんだろう』ぐらいの感じでね。あれをやれ、と言われたら、はい、やりますよと。だから、反発したり落ち込んだりすることもなかったです」
なにを言われても、なにをされても、淡々と、黙々と手を動かしているうちに、プロの技術が身についてきた。その姿勢を評価したのだろう。働き始めて1年ほど経った時、若い料理人たちを束ねるチーフが、しおりさんを自分の下につけた。厳しくても理不尽なことはしないチーフのもとで、しおりさんはどん欲に学んでいった。その店で2年働き「ある程度、形になった」と感じた24歳の若者は、店を離れてバイクを駆って旅に出る。

