「1人で10人を相手する」想定で訓練が進んだ
隊員は1000人余。前述の内山二三夫らから訓練を受けた露木甚造大尉が、挺進大隊長に選ばれた。車両や航空機に加えて野戦砲の操作にも通じ、戦車学校の教官を務めた経歴もあった露木は、「相手は近代兵器といえば戦車ですから、そういう意味で僕なんか抽出(選抜)されたんじゃないかと思う」と、振り返った。
夜間戦闘に練達させるため、露木は挺進大隊の発足と同時に隊員らに昼夜を逆転させ、昼間に眠り、深夜に訓練させた。格闘訓練では、銃剣を手に1人が10人に向かい、生き延びながら敵を殺傷する戦い方を徹底させた。戦闘は3人1組が基本で、この3人には日常生活も共にさせた。
武器がないので、人間が飛行機や砲の機能を果たすことを目指したという。ただし、「向こうは機械化兵団で、こっちは(長さ)75センチの足じゃ、つぶされちゃうから、一遍ぶつかったら向こうへ抜け」たうえで、背後から敵司令部や戦車を襲う作戦だった。
隊員らに自決の覚悟を徹底させる一方、「ただ線香花火みたいに戦死してしまうと、それじゃやっぱりいけないんだ」として、「生き永らえて、命のあらん限り戦い続ける」よう求めた。
8月3日、普段なら大尉クラスなど立ち入り禁止だった師団司令部の作戦室に、露木は呼び出された。作戦室には、師団参謀長の土田と作戦主任参謀の村木曠中佐がいた。3人でソ連軍の出方を検討するのだという。
露木が「危ないんですか?」と尋ねると、土田は「危ないんだ」と答えた。希望的観測からソ連軍の侵攻を「秋以降」に想定しようとした関東軍総司令部よりも、国境に面した師団参謀らの見通しは厳しかった。
戦車部隊にどう対抗するのか。兵棋(部隊を模したコマ)を使って検討が始まった。



