第2次世界大戦の末期、ソ連軍が満州へ侵攻を開始し、現地に残る旧日本軍と激しい戦闘が繰り広げられた。公的な記録は乏しいものの、当時はソ連軍を攪乱する目的で組成されたゲリラ部隊もあり、惨劇を招いている。
中でも「歩兵第123師団」は、めぼしい武器もないままに爆弾を抱えてソ連戦車の下に突っ込む“肉薄攻撃”を展開していた。しかし全く通用せず、現場は混乱に陥っていた…。米軍の戦史研究家が当時の将官たちから聞き取った内容をまとめた書籍『満州スパイ戦秘史』(永井靖二著、朝日新聞出版)から一部抜粋し、お届けする。(全2回の2回目/最初から読む)
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「全然効かない」
伝令が泣きながら、報告に来た。
「こんなことでは戦にならないじゃないかっ」「いったい、何の準備しとってくださったんですかっ」。土田参謀長のもとに露木は怒鳴り込んだ。急いで爆弾を10キロに作り直させ、80個を戦場に運んだという。
夜襲部隊を率いた露木らは、付近の戦線から流れてきた兵士も含む約1千数百人とともに、1945年8月15日から2日2晩、孫呉の南約10キロの「秋月山」「南腰山」と名付けた一帯で、兵士の数だけでも10倍を超える約1万2000~1万3000のソ連機動部隊と死闘を繰り広げた。ゲリラ戦ではない、「全くの正面衝突」だった。
15日夜、「積極的戦闘行動を直ちに停止すべし。ただし、敵の攻撃に対しては、厳に警戒すべし」という、暗号化されていない電文を露木らは受信したという。だが、その前には「武装諜者がたくさん入っている。攪乱されるな」という電文も入っていた。
そのため念を入れて師団司令部に問い合わせてみたが、返信はなかったので「敵の謀略の可能性がある」とみて放置した。17日正午に再び、ほぼ同じ内容の電文が来たが、これも無視した。
いよいよソ連軍の包囲は狭まった。午後3時半、通信機などの機材をすべて捨てて兵を軽装にさせ、最後の突撃を指示した。



