東京都大田区に生まれた明菜は、先述のとおり清瀬市で育った。実家は精肉店を営み、中学時代には家庭科の調理実習があるたび、当たり前のように肉を用意する当番だったという(『COSMOPOLITAN』2001年7月号)。しかし、当の彼女の家は6人きょうだいの大家族で、けっして裕福ではなく、食事に肉が出ることはほとんどなかったらしい。
「明菜! やめなさい!」母親が思わず一喝したわけは…
母親はもともと歌手を目指していたことから、子供の誰かに歌手になって稼いでもらいたいと望んでいた。一番歌が上手かったのは長女だが引っ込み思案だったので諦めざるをえず、下から2番目の明菜に期待がかかる。
デビューのきっかけは、森昌子や山口百恵など多くのアイドルが輩出されたオーディション番組『スター誕生!』(日本テレビ系)に出場したことだ。明治大学付属中野高校1年のとき、同番組の本選で番組史上最高となる392点を出して合格する。それが16歳の誕生日の2日前のこと。4ヵ月後の決戦大会でも最高の成績を上げ、デビューが決まる。こうして翌1982年5月、「スローモーション」で歌手デビューした。
『スター誕生!』本選で合格したのは、じつに中学2年以来3度目の挑戦においてだった。2度目の本選出場の際には、審査員の一人から「歌は上手だけど顔がとっても子供っぽいから、無理ね。大人の歌をうたうより、童謡でも歌ってたほうがいいんじゃない?」と言われ、カチンと来た明菜は、つい「童謡を歌えと先生はおっしゃいますけど、『スタ誕』で童謡は受けつけてくれないんじゃないですか」と抗議してしまった。そこへ客席から「明菜! やめなさい!!」と母親の声が飛んだという(中森明菜『本気だよ 菜の詩・17歳』小学館、1983年)。
歌を褒められることが嬉しかった
新人時代のインタビューでは、母親は薩摩オゴジョ(鹿児島生まれ)でハッキリものを言う生一本の女性で、《『相手がどんなに偉い人でも、こうと思った自分の意見は、はっきりと主張しなさい』と教えてくれました。性格はそんな母に一番似てます(兄妹の中で)》と語っていた(『サンデー毎日』1983年5月1日号)。
子供のときから家で歌っていても、母からは「そこはビブラートをつけないよ」「お腹から声が出ていない」「もっと感情を込めて」などとよく注意されたという。
《母は私の性格を、見抜いていたのでしょうね。私はすごく「褒められたがりや」で、怒られたり注意されると、褒められるまで頑張る子だったんです。だからこの子に歌を注意すれば、いくらでもうまくなる。全部直してくるだろうと踏んでいたのだと思います》(『婦人公論』1999年5月22日号)
彼女はのちに《歌というのは人に聴かせるためにある、と思っている》(『CREA』1996年5月号)と語っているが、それも母に褒められるために歌っていた少女時代に染みついた信条であった。

