※こちらは公募企画「文春野球フレッシュオールスター2025」に届いた原稿のなかから出場権を獲得したコラムです。おもしろいと思ったら文末のHITボタンを押してください。
【出場者プロフィール】きたのこうへい 横浜DeNAベイスターズ
93年横浜生まれ。小1からベイファン。音響などの裏方仕事。自由意志の研究で修士論文を書いた。2024年から小説・エッセイ等の創作活動を開始。大谷翔平を批評したエッセイ「大谷翔平は凄い」がBFC6(ブンゲイファイトクラブ)一次予選を通過。旅をして文章を書く冊子「火を焚くZINE」を友人と作っている。
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僕は森敬斗に嫉妬している。
それは抜きん出た身体能力から発せられる華のある動作にでも、アイドル顔負けのビジュアルにでもない。石井琢朗に直々にショートストップとしてのいろはを指導してもらえるからだ。石井琢朗と、野球ができるからだ。
野球を始めた僕のお手本だった石井琢朗
僕は1993年生まれで、小学校に入る頃からベイスターズの試合を見始め、野球を始めた。父親に初めて連れてきてもらった横浜スタジアムでの試合では、スワローズのペタジーニとベイスターズの谷繁のホームランを見た。
当時ベイスターズのショートを守っていたのは不動のレギュラーでありリードオフマン、石井琢朗である。石井のゴロ捕球から送球までの洗練された身のこなしは、その全てが、野球を始めた僕のお手本だった。その力の抜けた、しかし俊敏な身体動作から繰り出される速く正確な送球、広角の打球。野球における一つ一つの所作の美的モデルとして、僕の揺るぎない基準となった。
僕がベイスターズを見始めた頃——つまり2000年代初頭——、ベイスターズは弱かった。ちょうど、いわゆる「暗黒期」に突入していく下り坂の初めから、僕はベイスターズを応援するようになったのだ。しかし、そのことは僕がベイスターズの試合を観るモチベーションにおいて、あまり関係がなかった。金城龍彦、鈴木尚典、谷繁元信、古木克明、村田修一、内川聖一、挙げだすとキリがないほど、見ているだけで心躍る選手が常に在籍していたからだ。
中でもやはり石井琢朗は特別だった。横浜に住んでいたので、ハマスタでの試合は基本的にTVK(テレビ神奈川)で観るわけだが、ビジターで中継が見られない試合は翌日の朝刊で結果を知る。スポーツ欄を開き、試合の結果より早く目を向けるのは、石井琢朗の打撃成績である。ベイスターズが勝っていようが、石井が5打数0安打であれば気持ちがどんよりしたし、ボロ負けでも石井がヒットを打っていれば嬉しかった。さほど打つわけではないホームランの数が増えていたりしたら、頭の中はお祭り騒ぎだった。僕はベイスターズファンであると同時に、いやそれ以上に、石井琢朗のファンだった。
石井琢朗になれず、高校で野球を辞めてしまった
僕は小学校で始めた野球を高校まで続けた。ずっと内野を守った。中学まではショートで、高校ではサードでレギュラーになった。その頃、石井琢朗は広島カープでサードを守るようになっていた。僕は必然的に、その守備を参考にするようになった。
動画サイトでキャンプの守備練習を探しては、繰り返し再生した。愛用していたウォークマンにその動画を保存し、自分の練習の合間にも見た。とにかく見て、その動きを体現するように練習した。石井琢朗の一挙手一投足を身体化せんとした。石井琢朗になろうとした。石井琢朗になりたかった。石井琢朗になれなかった。
僕は高校で野球を辞めた。父は僕のサードの守備に往年の長嶋茂雄を重ねてよく褒めた。巨人ファンだとばかり思っていた父が長嶋茂雄ファンであるということがわかったのもその頃だった。父は僕に期待をかけ、野球を続けることを望んでいた。しかし僕は辞めた。

