「疑惑」 1956年(宮部みゆき・選)
宮部 現実に起こった保険金殺人を題材にして、映画化もされた同タイトルの現代ものが非常に有名ですが、時代ものの「疑惑」もぜひ、ということで。シンプルなタイトルでありながら、とても後味の悪い作品で、ずっと印象に残っていました。
北村 時代ものの方の「疑惑」は、年月を経たのち、妻と男との間にあった本当の関係性は分からない、妄想だったのかもしれない――と、夫である主人公が思うに至ります。人情の機微のようなものが読みどころですね。
宮部 舅に気に入られた男と妻が密通しているのではないか、という思いに、夫は囚われます。悲惨な結末を迎え、しばらくして他の女性と婚姻した後で、「妄想だったのではないか」と思い返すなんて、妻がかわいそうでならない幕の閉じ方です。
有栖川 事実は分からないまま終わるところが見事です。氷に触って「冷たい!」という感触だけがいつまでも残るような、尾を引く後味の悪さですね。
北村 夫が密通の妄念にとりつかれて仕事を抜け出すくだりも秀逸です。折が悪く、不在にしたまさにその隙に、勤め先で火事が起こってしまう。重なる夫の不運にも「人生にはそういうことってあるものだ」と思わされました。
有栖川 誰しもの心にある「これだけは我が身に起こってほしくない」と思う出来事がどんどん突き付けられて、もうたまりませんよね。悪い方へ悪い方へと物事が進んで、「自分もこうなるタイプかもしれない」と思ってしまう迫力があります。
北村 有栖川さんも、この主人公のようなタイプ?(笑)
有栖川 とりあえずは私のことではなく、書きっぷりの説得力について話しています(笑)。この「たまらんな」という思いは、もしみんなが一様に間が悪いのであれば気にするほどのことでもないのかもしれません。でも、ある人にだけ降りかかる不幸であるからこそ、「ああ、俺はこっち側の人間だ。自分はこうなる。油断してはいけない」と、身につまされるような感覚がありました。つまり、自分もこっち側のタイプかもと恐れています。
宮部 タイトルが「嫉妬」ではなく「疑惑」である一ひねりも、惹きつけられますね。「何の疑惑かな?」ということまで考えてしまいます。
北村 おそらくこのタイトルが示唆する通り、真相は何でもなかったのでしょうね。
宮部 改めて、本当に妻がかわいそう。この作品のように、男が女性や恋人に嫉妬して突っ走る物語は、清張さんの作品の中では珍しいように思います。

