多大な惨禍を招いた先の戦争の敗戦から80年――。世界は平和になるどころか年を経るにつれ混沌さを増している。歴史に学ぶことの重要さは高まるばかりだといっていいだろう。
NHKエンタープライズ・ディレクターの大島隆之氏は、昨年8月に放送し大反響を呼んだNHKスペシャルを基にした書籍『“一億特攻”への道 特攻隊員4000人 生と死の記録』(文藝春秋)をこのたび刊行した。大島氏は全国の特攻隊員の遺族を訪ねる取材を長年にわたって続けており、その一端を紹介してもらった。(全2回の1回目/続きを読む)
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「特攻隊員たちの記憶」を訪ねて
アジア太平洋戦争が終わってから、80年目の夏を迎えている。日本人にとって、あの戦争は何だったのか。それが知りたくて、これまで20年にわたり、戦争の時代を生き抜いた人たちに話を聞いてきた。特にここ数年は、「特攻」で命を落とした若者たちの遺族のもとを主にまわっている。
戦争が終わる10か月前の1944年10月にフィリピンで始まった体当たり攻撃「特攻」は、一時的なその場しのぎの作戦として始まったものの、予想以上の戦果を挙げたことから急速に拡大し、1945年8月15日の午前中まで続けられた。航空機による特攻だけで4000近い命が失われただけでなく、国民すべてに同様の自己犠牲を求める「一億特攻」というスローガンを生み出し、日本人の戦意を高揚させた。それは結果的に、さらなる大きな犠牲を生み出していった。
戦後すぐに陸海軍がまとめた特攻戦死者名簿をもとに、隊員たちの本籍地や住所を調べ、それを現在の地図上にマッピングしてみたのが、遺族巡りを始めるきっかけだった。すると、これまで漠然とイメージしていた「特攻」が、明確な形を持ってそこに現れた。隊員たちの故郷は47すべての都道府県に分布し、当時日本の統治下にあった樺太、台湾、朝鮮半島にも及んでいた。
これらの4000近い点のひとつひとつが、特攻隊員たちが人生の多くの時間を過ごした場所であり、彼らの無事を願った家族が暮らしていた場所であり、彼らの死を受け止め、熱狂的に讃えた場所でもあった。「一億特攻」という言葉も、まさにこの場所から生まれていった。


