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女工を何人も雇い…
もうひとりの田邉茂雄さん(陸軍、1924.7.3-1945.1.10、フィリピンで戦死)の生家は、その夜具地を織る機屋だった。近所の人の話によれば、女工を何人も雇い、染色も織も自分たちの工場で行うなど、大がかりにやっていたのだという。茂雄さんには兄と弟がいた。二男だった茂雄さんは、家を出て飛行機乗りとして身を立てることを夢見たのだろう、軍ではなく逓信省の搭乗員養成所に入所したが、戦局の悪化とともに陸軍に編入され、特攻隊員として戦死していた。長男もまた、茂雄さんの死の4か月後フィリピンの地上戦で戦死し、弟が家業を継いでいた。その弟も、数年前に亡くなったそうだ。
このように遺族はいなくても、親戚や近しい人が残っていることが多く、かろうじて、時空の彼方に消えていこうとする記憶を拾い集めることができる。こうして18名中14名の家業が明らかになったが、うち9名は農家だった。当時の農業人口の多さを考えると、これも順当な割合だ。そのひとり、指田良男さん(海軍、1924.4.19-1945.4.6、沖縄で戦死)の本籍地には家族が健在だった。そこでは、さらに深い話を聞くことができた。
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