その後も取材を進め、現在までに600を超える隊員の故郷を訪ねることができた。4000という数からみれば、まだまだわずか。仕事の合間を縫いながらの訪問のため、すべてを回り終えるにはかなりの時間がかかりそうだ。だがそうしたなかで、実際どのような出会いがあり、発見があるのか。いま、「特攻隊員たちの記憶」はどのような状況にあるのか、紹介していきたい。

東京都下 マップ 東京都下の特攻戦死者のもとを訪れる

 ここに示したマップは、東京都のなかでも23区以外の市町村、いわゆる「東京都下」と呼ばれる地域のものだ。18名の隊員が戦死している。このうち遺族に会えたのは、地図上で赤色に印した11名。残りの黄色の7名は、訪ねても遺族はいなかった。赤色の11軒のうち、兄弟姉妹が存命だったのが2軒、甥や姪(隊員の兄弟の子ども)にしっかりと記憶が受け継がれていたのが6軒、世代が変わって何も分からないと言われたのが3軒だった。興味深いことにこの比率は、多くの地域でおおよそ共通していて、「特攻の記憶」の現在地を表していると考えられる。

「特攻に行くなんて、すごい精神力だ」

 でも遺族がいなかったとしても、多くの発見がある。例えば地図の左上の2点、中尾勝太郎さんと田辺茂雄さん、このふたりは現在の青梅市の出身だ。

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 中尾勝太郎さん(海軍、1925.12.12-1945.3.21、九州東方沖で戦死)の本籍地は、青梅駅近くの商店街にあった。当該の番地には家がなかったため周囲で聞き込みをしたところ、勝太郎さんの従兄弟にあたる男性が、近くで「力屋(ちからや)」という祭り用具の専門店を営んでいた。

祭り用具の専門店「力屋」

 昭和12年生まれで、勝太郎さんとは一回り年の差があった源太郎さんは、戦時中に戦死の知らせを聞いた際、「特攻に行くなんて、すごい精神力だ」と驚いたことを覚えているとという。「でも、その頃のことを語れる人は、このあたりでは俺ひとりになっちまったな」。

従兄弟が戦死した源太郎さん

 源太郎さんの話によれば、青梅は戦前から「夜具地(やぐじ)」というふとん地の産地として知られ、商いをする人が多く立ち寄り、芸者が出入りする料理屋なども多く立ち並んでいた。勝太郎さんの父は、置屋をやったり、野師(やし・露天商のこと)をしたりして生計を立て、戦後は満州から引き揚げた兄が洋服屋を営んでいたが、子どもたちはみな青梅を出ていったという。何人かの親戚に電話をかけて尋ねてみてくれたが、その後の足取りは分からなかった。