多大な惨禍を招いた先の戦争の敗戦から80年――。書籍『“一億特攻”への道 特攻隊員4000人 生と死の記録』(文藝春秋)をこのたび刊行した大島隆之氏(NHKエンタープライズ・ディレクター)は、全国の特攻隊員の遺族を訪ねる取材を長年にわたって続けている。遺族が大切に保管している遺品や当時の資料から浮かぶものとは何か。
東京都下の「特攻隊員・本籍地マップ」にある18軒、続いては、沖縄で戦死した指田良男さん(海軍、1924.4.19-1945.4.6)の親族を訪ねる。(全2回の2回目/最初から読む)
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自分を大切にしてくれた人だった
指田家は、多摩川のほとり、玉川上水の羽村取水堰のすぐそばにあった。17世紀、拡大を続ける江戸の町に飲用水や農業用水を届けるため玉川兄弟が掘削した由緒あるこの上水は、良男さんが生きていたころと大して変わらないであろう風情で、豊かな水をたたえていた。
良男さんは8人きょうだいの六男。5人の兄以外に、姉と妹がひとりずついた。応対してくれた1941年生まれの勝巳さんは、長兄の息子。勝巳さんの父も南方で戦死し、無事に復員した四男が長兄の妻と結婚し、家を継いだ。こうした事例は、戦時中から戦後にかけて、特に農村部などでよく耳にする。戦後、勝巳さんには弟妹がひとりずつできている。
勝巳さんは、市役所を定年退職後、父や叔父の遺品を整理し、慰霊に足を運ぶようになった。靖国神社から例大祭の通知が来たのがきっかけだったという。当時家には、良男さんの遺品がたくさん残されていた。小学校時代の文集、勲章、「軍神之家」と書かれた木柱。これらは勝巳さんの手により、羽村市の郷土博物館に寄贈されている。
勝巳さんは、記憶にはない叔父・良男さんについて丁寧に語ってくれた。今は亡き父母から、良男さんの慰霊をするように言われたわけでもないという。ではなぜなのか。それを考えるヒントが、家に残るアルバムに貼られた写真にあるように思われた。
「良男さんは私のことをとてもかわいがってくれたそうです。手先が器用だったみたいで、私が2、3歳くらいの時、予科練から帰省した際、木製の手押し車のようなおもちゃを作ってくれたこともあったみたいです」
自分のことを大切にしてくれた人だった。その感謝の思いが、良男さんの記憶を留めさせているのだろうと、勝巳さんの話からは感じられた。






