「実際に飛んできた時の写真じゃなくて、芝居だ」
栄一さんは、私が気になっていた、郷土訪問飛行の時の写真についても、興味深いことを教えてくれた。
「これはうちの田んぼですよ。稲がまだ実ってなくて刈れないから、ヒエという雑草を抜いてね。これ手に持っているの雑草ですよ。それを稲のように持って、写真を撮ったんです。みんな、了ちゃんが来るのが嬉しいから協力してね。しかもこれは、実際に飛んできた時の写真ではなくて、芝居だ。飛んできた前とか後に、田んぼに行ったり小屋の屋根に登ったりして、『来たという感じで手をふってくれ』と言われて。芝居をしたんだね。
決戦という言葉を盛んに言っている頃でしたから、勝つつもりでいたんだからね。考えてみりゃ、アメリカと戦って勝つわけないんだけど、日本は負けたことないってことで、勝つつもりでいたんだからね」
1944年10月か11月、フィリピンの最前線に出る直前、了一さんは飛行機を取りに立川基地に立ち寄ったついでに1週間ほど自宅に滞在した。栄一さんも、その時のことをよく覚えているというが、家族を気づかったのだろう、死を感じさせる話はひとつもなかったという。
家族が了一さんの特攻出撃を知ったのは、戦死から4か月が経った1945年5月のこと。新聞の一面に出ていたのを、近所の誰かが見つけてのことだったという。残念ながら、田中家にその時の新聞は残されていなかったが、軍から届いた「死亡告知書」が保管されていた。その日付は、昭和21年2月1日。戦争が終わって半年後のことだった。



