かつての住宅は…

 こうして隊員たちの故郷を訪ね歩いていると、人の好意に助けられ、不思議な縁に引き寄せられるような出会いを経験することが少なからずある。米軍・横田基地の近く、瑞穂町にある福島保夫さん(陸軍、1926-1945.4.7、沖縄で戦死)の本籍地を訪ねた時もそうだった。

 調べた番地を地図で調べると、八高線の箱根ヶ崎の駅前だった。1991年の住宅地図までは「福島」という家があったが、その後の区画整理で姿を消していた。実際に訪ねてみる。かつて住宅が建ち並んでいた駅前の一帯は、無機質なロータリーに姿を変えていた。

箱根ヶ崎駅前のロータリー

 ここまできれいさっぱりなくなっていると、手がかりを探すのも徒労に終わりそうで、あきらめて次の家に行こうかと思ったが、あたりを散策したところ古くから住んでいそうな家を発見したので、ダメ元で声をかけることにした。

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 インターホンを押すと、「はーい」と明るい声が返ってくる。玄関先まで出てきてくれたおばあさんに事情を話してみると、福島家と特別に懇意にしていた家だったようで、転居した先を知っているという。教えられるままに駅の反対側へと向かってみると、確かにそこが福島保夫さんの遺族・和雄さんの家だった。

 保夫さんの遺族名簿には、父が栄重さんであるということしか書かれていなかったが、家族関係は複雑だった。保夫さんは栄重さんの姉の子どもで、姉が離婚して再婚するにあたり、子どものいない栄重さんと養子縁組をしたのだという。だが、跡取りの保夫さんが戦死してしまったため、親戚の和雄さんが福島家に入って家業を継ぎ、以来、保夫さんの位牌と遺影を大切に守ってきた。

和雄さんが守ってきた保夫さんの遺影

 栄重さんは埼玉県の嵐山(らんざん)の出身で、八高線の開通に合わせて箱根ヶ崎駅前に店舗兼住宅を構えて商売を始めた。「荒物屋(あらものや)」と言って、筵(むしろ)、縄、蚕の餌や飼育道具など手広く扱う家業だったようだ。

 東京都下では、第一次世界大戦の好景気に沸いた1919年をピークに養蚕が盛んに行われたため、「荒物屋」も重宝されたが、養蚕の衰退をうけ、戦後は畳屋に職を変えていた。「チカちゃんが生きていたらねえ……」。保夫さんには年の近い周代(ちかよ)さんという妹がいたそうだが、昨年9月に亡くなったのだという。この遺族巡りが一刻を争うものであることに、改めて気づかされる。