大切に保管されてきた数々の遺品
そうしたなか、幸いにも近親者に出会い、貴重な記憶に触れられることもある。八王子市に暮らす、田中了一さん(陸軍、1924.11.15-1945.1.8、フィリピンで戦死)もそのひとりだった。了一さんの本籍地は、多摩ニュータウン西部の南大沢の駅近くにあたり、1980年代に急速に開発が進んだ一帯で、住宅地図ではアパートになっていた。だが、周辺には「田中」姓が多く見られたので、聞き込みをすれば何かわかるのではと思い、訪ねてみた。
1軒目の田中さんを訪ね、家の外でおばあさんと話していたところ、ちょうどそこに娘さんが帰ってきた。だいたいこういう展開は、不審者と疑われることになる。この場合もそうだったのだが、幸いなことに、なんとか信用してもらうことができた。娘さんを交えて話したところ、「みっちゃんのところじゃないかしら」というので、さっそく向かってみる。
到着してみると、農作業姿のひとりの男性がちょうど帰宅したところだった。了一さんの兄の孫にあたる、田中道夫さんだった。
畑にいたところ「取材の人が行くよー」と電話が入ったらしく、わざわざ家に戻ってきてくれたそうだ。了一さんは9人きょうだいの一番末だった。「これ以上子どもは作らない」という意味で「了」の字がつけられたという。道夫さんは1960年生まれで了一さんのことを直接は知らないが、「了ちゃん」「了ちゃん」と親しげに語る。理由を尋ねてみると、道夫さんの父親・栄一さんが了一さんの7歳下で、同じ家で兄弟のように育ち、「了ちゃん」についてことあるごとに語ってくれたのだそうだ。
田中家には、栄一さんが大切に保管してきた了一さんの遺品が、たくさん残されていた。陸軍の少年飛行兵学校時代のアルバム、小学校時代の山のような表彰状。成績抜群で、皆勤賞で、級長も務める、栄一さんにとっては自慢の「叔父」だったようだ。遺品のなかには、1943年9月17日付の新聞が、朝日、読売、毎日と各紙あった。そこには、了一さんが「郷土訪問飛行」した際の様子が、一面トップで掲載されていた。
郷土訪問飛行というのは、10代半ばの子どもたちに少年飛行兵への志願を促すため軍が行ったセレモニーで、複葉の練習機に乗った練習生たちが、故郷の学校や実家、村社などの上に飛来し、旋回したり、宙返りをしたりした。
「学校に飛んできたみたいなんですよね。父も屋根の上に登って、旗を振って歓迎したと聞いています」



