ヘルニアが治ると、次はイップスに…
——ピーク? どうしたのですか。
柴田 1年の夏に腰のヘルニアになったんです。やはり体が弱かったのだと思います。ベーチェット病になってから練習時間を短くしていましたし、基礎練習も足りていなかったのかもしれません。だから、そこからはピラティス、腹筋・背筋、デッドリフトなど、体を強くする練習を重点的にするようにしました。
——ヘルニアがよくなってから、野球のプレーが復調することはなかったのでしょうか。
柴田 ヘルニアが終わったと思ったら、2年生でイップスになってしまったんですよ。
社会人野球のお手伝いでバッティングピッチャーをする機会があって、あまりストライクが入らず、ちょっと気まずいなと思いながら投げていたんです。ストライクに入れようと投げたら、ボールが捕手どころかバッティングケージの上をぽーんと大きく越えていってしまいました。おかしいな? と思って次に投げた球は、ツーバウンド。さすがに手が震えました。それまで投球で悩むことはほとんどなくて、すいすい投げていたので、自分に対する驚きのようなものが大きかったです。そこからイップスです。自分が投げる球をコントロールできなくなってしまいました。
ドジャースタジアムで黒田にかけられた言葉
——イップスとはどのように向き合っていったのですか。
柴田 近距離は投げられなかったんですが、遠投はできたんです。なので、一時期は外野手に転向していました。イップスには明確な改善策がないので、外野手をしながら試行錯誤して、なんとか投げられるように練習を続けていた感じです。苦しい日々でした。
また、当時の明治大野球部はアメリカキャンプがありました。ドジャースタジアムで練習できる機会もあったのですが、ちょうど僕はイップスの真っ只中で、投内連携でひどい送球をしていたのですね。そこに黒田博樹さんがいて「俺もそういう時期があった。それでもいまはドジャースで投げられているから、がんばれ」と声をかけてくださいました。その言葉は大きな励みになりました。



