2021年12月12日。

 例のテレビ番組出演から一週間が経った。

 この日僕はあるYouTube撮影に参加するため、電車を乗り継いで撮影場所へ向かっていた。

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 連絡をくれたのは、YouTuberとして駆け出しの頃から付き合いがあり、今でも様々な現場で一緒になる仕事仲間である。

「体調を崩してしまったメンバーの代わりに出演してもらえないか?」という話だった。

 新宿駅から電車に乗り込むと、平日の午前中ということもあってか車内は閑散としていて乗客もまばらだった。電車はいくつかの駅で数人の乗客を吐き出し、また数人を拾いながら目的地へ向かう。席に腰かけぼんやりと景色を眺めているうちに、僕は連日の編集作業からくる疲労で、いつのまにか寝入ってしまっていた。

 しばらくして軽いブレーキの反動で目を覚ます。顔を上げると、いつのまにか車内は満員状態に変わっていた。寝過ごしてしまったかと慌てて電光掲示板を確認するが、乗り換え予定の駅はまだ少し先らしかった。安堵しながら再び座席に身を沈める。そのとき、離れた場所から乗客の隙間を縫うようにしてこちらへ移動してくる男性の姿が見えた。

 スーツ姿に眼鏡をかけた、いかにもビジネスマンといういで立ち。ビジネスバッグを脇に抱えた中年の男性がグイグイと人を押しのけるようにして、僕の座る位置まで近づいてくる。

 周りの乗客が迷惑そうに眉をひそめながら通路を空け、男性は体をねじ込ませるようにして僕の前に立った。つり革を握ったその男性と一瞬、視線が合う。

「おい」

「……はい?」

 反射的にイヤホンを外して聞き返したのは、明らかに男性が僕に向かって声をかけていることが分かったからだ。神経質そうな細いフレームの眼鏡。視線は確実に僕を捉えている。

 まぬけな声で返事をしながら男性を見上げると、男性の険しいその表情には、はっきりとした苛立ちと怒りが色濃く表れていた。

「とってんじゃねぇよ」

「え……?」

 とる? 何を? 

「だからぁ……とるなっつってんだよ‼」

 男の怒声が満員の車内に響き、途端周囲に緊張が走った。

「なぁ、とるなよ。お前」

 男がつり革を握ったまま、こちらを見下ろした姿勢で僕に詰め寄る。

 とっている、というのは、僕が携帯か何かで撮影をしているということだろうか。確かに携帯は手元にあったが、音楽を再生しているだけでカメラは起動させていない。一体何なんだ。

 突然向けられた理不尽な怒りにさらされ、僕は困惑しながら助けを求め周囲に目をやる。周りからは車内で突然はじまったいざこざに興味をひかれた、いくつもの視線がこちらに向けられていた。

 盗撮―。うっすらと疑惑の色が滲んだ周囲の視線に言い訳をするように、僕は慌ててブンブンと手を左右に振って否定した。

(違う! 撮ってない!)

「撮ってないです、ほら!」

 誤解を解くため、手に持っていた携帯の画面を男に向ける。もちろんそこに映っているのはカメラ画面などではなく再生していた楽曲のタイトルだ。

 男の顔色を窺うが、男はなぜか画面を一瞥もしなかった。

「うるせぇ。とるんじゃねぇよ。ばか野郎」

 駄目だ。会話が成り立たない。コミュニケーションが取れない人間、もしくはそれを放棄した人間は大型の野犬と変わらない。遭遇すれば最後、興味を失って立ち去ってくれるのをじっと祈りながら待つしかない。これが街中であれば隙を見て逃げ出すこともできたかもしれないが、ここは走る列車の、しかも満員の車両のド真ん中である。男の理不尽な罵声を浴びながら僕が考え抜いた最善策は、このまま動かずに身を固くしてひたすら耐え忍ぶということだった。

 そんな逃げ場のない車内であるはずなのに、僕と男の周囲だけ半径一メートルほど不自然な空間が空いていた。皆厄介ごとには巻き込まれまいと距離を取っている。怯えた視線を送る者、好奇の視線を注ぐ者、我関せずで別の方向へ顔を向けながらも聞き耳を立てる者―。

「おいっ! 聞いてんのか⁉ とるなっつってんだろうが!」

 苛立った男がひと際大声を上げる。ぎょっとした周囲の乗客がさらに半歩下がる。

「なぁ。とってんじゃねぇ‼」

 口角に泡を溜めながら怒鳴る男は明らかに興奮状態だった。

 いつ男が脇に持つビジネスバッグから刃物を出しても不自然ではない。三十代男性、列車内で刃物を持った男に刺されて死亡―。

 そんな笑えない見出しの事件に発展してもおかしくはなかった。心臓はバクバクとうるさく脈打ち、全身から嫌な汗が噴き出す。

 ―どうする? どうすればいい?

 話が全く通じない相手だ。けれどとにかく納得させて落ち着かせるしかない。できるだけ冷静に。できるだけ穏便に。

「分かりましたすみません。撮ってるように見えたのなら謝ります。携帯、鞄に入れますんで。ほら―」

 そういって膝の上に抱えたリュックを開け、携帯を放り込んだ瞬間、思わずその姿勢のまま固まる。

 リュックの底に、白い布で包まれた「あの鏡」が見えている。

 そうだ。今の今まですっかり忘れていたが、今日はYouTubeで紹介するために鏡をリュックへ入れていたのだ。

「なぁ、とってんじゃねぇよ」

 リュックに視線を落としたまま固まる僕のうなじに男の声が降ってくる。

 鏡を見てから今日でちょうど一週間。呪いが本当にあるのならば、今日死んでもおかしくはない。

 鏡の呪い。村川家への呪い―。

 もし、男の言う「とっている」が「カメラで撮っている」ということではなく、「盗っている」という意味だとすれば―。

 その後も男は目の前に立ち続け、「とるなよ、とってんじゃねぇ」とひたすら僕に言葉をぶつけ続けた。僕は可能な限り男を刺激しないよう、しかし動きがあればすぐに回避できるよう固く身構えるしかなかった。

 いくつかの駅を過ぎ、僕が降りる予定の駅の二つほど手前で男は舌打ちを繰り返しながら電車を降りた。生きた心地のしない時間が終わりを迎え、びっしょりの汗を拭いながら大きく息を吐く。

 視線をあげると動き出した電車の窓から見えるホームに先ほどの男がいた。大口を開けて僕に向かって指を差しながら叫んでいる。

 ―とってんじゃねぇよ!!

ヤバい実家

はやせ やすひろ ,クダマツ ヒロシ

文藝春秋

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