恐れていた日
三十の歳で召集され、二等兵から始めたが、概ね優秀な兵として順調に階級が上がっていった。学生のころ、当時の学生の多くがそうであったように、左翼の洗礼を受けた彼も、軍隊では、それをおくびにも出さなかった。ところが戦争が苛烈となり、日本の軍隊が崩れてゆくにつれて、彼は次第次第に、鉄の枠から解放されて、自分の考えで行動していった。その最初のきっかけは、釡山からサイパンに送られる途中、潜水艦にやられ、太平洋の真ん中に放り出された時だった。三間足らずの材木に、二十人もが縋がりついて漂流しているとき、鬼准尉が一等兵に怒鳴りつけられた。まごまごすると将校だろうと多数の兵隊に殺されかねない状況だった。一つのタガが外れた。
乞食の姿でサイパンに上がった彼の部隊は、数においても士気においても半端で使い物にならなかった。上官の眼から逃れることしか兵隊は考えていなかった。米軍に上陸されたらそれまでと誰も思っていたから、自分のいる島を米軍がそれていってくれるのを祈るだけだった。
恐れていた日がついに来てしまった。水平線は鋼鉄でびっしり埋め尽くされた。彼は口惜しさでいっぱいだった。自分が最も憎み、最も軽蔑する下劣な人間と心中することを強いられ、それしか残された道がないのが口惜しかった。しかしまだ捕虜などということは毛頭考えなかった。
米軍陣地へ行くという決断
米軍が上陸したとき彼は、樹海に一人置かれ、上陸後十時間も敵の上陸を知らないでいた。
彼はその前夜、上陸の気配にすっかり取り乱している隊長に罵られながら、逓伝哨〔情報リレー兵〕として山の中へ追いやられた。銃も装具も前の陣地においてきたまま、取りに行くことも許されず、飯盒一つぶら下げて追い出されたのだった。敵の中を丸腰でさまよい歩く日が続いた。親しい戦友にめぐり逢った。食う物もなく、小川のふちにその戦友と二人きりで坐り込んでしまった。飢えを覚えると、川の水を飲んだ。水を見ていると心が落ちついた。ここを死に場所と定めた。いろんな思いに耽けるうち、どうしても生きたくなった。二人で三日間議論して結論を得た。
「日本は負ける、自分たちを戦争に駆り立てたお偉方はいなくなる。自分が共鳴出来る人たちが国の指導権を握る。社会は自分を容れてくれる。アメリカ人は中国人より教養が高い。日本人は中国人にしたほどにはまだアメリカ人を虐待してないだろうから、アメリカ兵の憎悪心は薄いだろう。アメリカ人は自分を殺さないだろう。よし殺されても元々だ、どっちみち死ぬんだから。このままでいれば死ぬ以外にないが、米軍陣地へ行けば少なくとも生きられる可能性がある」



