同胞への揺れる思い

 この記録は収容所に異常な衝撃を与えた。いずれ劣らぬ苛烈な戦場から来ている捕虜たちだったが、マーシャルの弾丸の音のしない生き地獄は、どこよりも一層凄惨だった。

 見棄てられた離島の同胞を救いたいという声が収容所の一部から起こってきた。祖国はおろか敵側からも問題にされず、無意味に死んでゆく同胞を、黙って見ていられないというのである。しかし、柵の中では公然と言われないことだった。

「てめいが捕虜になっただけでも申しわけないのに、人まで誘うとは何事だ」

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 という“道義”が支配していた。マリアナで戦友の呼び出しに行ったために、仲間からこん棒で青ぶくれするほど殴られた例は珍しくなかった。理由がどうであろうと利敵行為は死刑に相当するという考えが、捕虜間の常識とされていた。

「自分さえ助かれば、後はどうでもいいと、知らん顔しているわけにはいかない」

 そういう捕虜数名を夜こっそりと事務所に集めて、私は相談に乗った。それまでにも、宣伝部の将校に頼まれて、ビラの批評や材料を提供した捕虜もあったが、彼らがどこまでも真剣に考えた上でのことか、私はあまり知らなかった。

呼びかけの文句

 少なくとも私は、そういうきわどい仕事を、こちらから持ちかけることは慎んでいた。彼らが、自発的に、しかも真剣になって取っ組んでこなければ、取りあげるべき仕事ではないと思っていた。さらに、私をアメリカの将校としてでなく、ただの人間として相談してくるのでなければ私は動こうとしなかった。だから宣伝部の人に頼まれても、私が信頼する捕虜を紹介しなかった。スポイルされることが恐ろしかったからだ。

 しかし、こんどの場合はそうではなかった。とうとう自分たちでがまん出来なくなって、言い出したのだった。それがいいことか悪いことかは議論の外で、「これをやらなければ嘘じゃないか」、そういう心情のほとばしりだった。それが分かったから私は本腰で相談に乗ることにした。

 脱出の勇気がある者は、島のまわりにときたま現れる米軍の救助艇に救われるが、脱出の勇気もなく、また、米軍に捕まれば殺されると思っている連中に真相を伝え、勇気を与えるにはどうしたらいいかを話し合った。呼びかけを的確にするために、島の地理や、部隊の事情を詳細に知る必要があった。脱出者の記録や話を中心に、呼びかけの文句を協同で作りあげ、それをリーフレットと録音盤に仕上げる仕事が始まった。

次の記事に続く 「“売国奴”と罵られても敢えて忍ぶ」「ただこの戦争が早く終わればいい」…米軍情報将校が目の当たりにした日本人捕虜の“リアルな姿”