捨てられた島の悲劇
私は厳粛な気持になった。徹し切っている。捕虜がいいか悪いか、この人たちにはもう理屈じゃないのだ。地獄島の現実が、彼らを追い出したのだ。彼らは人間だったから追い出されたのだ。この親分は、私が今でも親交を結んでいる好漢“マーシャル”である。
勤務員のいる柵へ行ってこの話をすると、ぜひ会わせてくれという者が出た。この男は専門学校出身の技術者で将校の出身だったが、はっきりした反軍思想を持ち、“右門”と共に早くから同じ考えの捕虜を探し求めていた男だ。規則としては、よその柵を訪問することは許されていなかったが、この男なら信頼出来るし、見放された島の惨状を、この男に記録してもらいたいと思った。深く考えもせず、また“海鷲”などと内地でもてはやされ、戦場の実相も見ずに突然捕虜になった連中に、この捨て去られた島の悲劇を知ってもらいたかった。
頭が鋭く、物分かりが早いくせに、多くのパイロットが、捕虜を極度に卑下し、かたくなに日を送っているのは、この、地獄島から来た教育程度の低い軍夫たちが、透徹した心境にあるのと、鋭い対照だった。特別の美食を御馳走され、常軌を逸した戦争熱に包まれた内地を飛び立ったその日のうちに、機を撃ち落とされて米軍に収容されたパイロットは、日本とアメリカ、日本軍人の捕虜、この両極のように隔ったものを結ぶ紐帯を一つも経験していないのだ。それは実に大きな空白である。捕虜を肯定するには、この空白を埋める数々の事実が、必然の連関をもって畳み込まれなければならない。
マーシャル群島の捕虜がしたこの畳み込みを、仮りに“肉体的”というならば、“北川”の場合は“理論的”といえるだろう。
満州、日華事変の初期、華北へ記者として従軍し、中国側の伏兵に陥ちた。そのとき彼は捕虜になることなど毛頭考えなかったという。それどころか、逃げ込んだ百姓小屋の中で、軍刀の抜き身を逆さに立て、敵が踏み込んで来たら、がくっと首を切っ先に持ってゆく姿勢を取っていた。中国兵に捕まれば、残虐な殺され方をすると確信していたからだ。なぶり殺しにされるのが当然なほど、日本軍は中国人を苛酷に扱っていることを、彼はいやというほど見て知っていた。自らの幻影におびえたのである。


