地獄島の記録

 マーシャルの一団が綴った“地獄島の記録”から抜粋してみよう。

 食糧の補給が絶えて八カ月目に減食四割を言い渡された。そのころ、一式陸攻機が三機来て、残っていた整備員を乗せて行ってしまった。これで、この島は完全に友軍から見放され敵の手に委ねられたと同様になった。それから三カ月後、周囲にある四十ばかりの小さな島に分散した。はじめは椰子の実が食べられたが、半月と続かなかった。草を食べ、魚とりをやったが、思うに任せなかった。ある島では日に平均二、三人餓死した。兵が椰子の木に登って実を盗むのを見て、隊長は下からピストルで射ち殺した。戦友が怒ってその隊長を射殺したので乱闘となり、連絡員が行ったときは、その小隊は、僅か四名となっていた。

 しかも本島では、将校たちが米の飯を食っていた。「敵が上陸したとき、兵と同じ物を食べていたんでは指揮がとれない」と将校は昂然として言った。

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 アメリカの救助船が島の近くに出没し始めた。百数十名の朝鮮人が暴動を起こし、米船に逃れようとしたが失敗して処刑された。「お前たちが死ねば、食糧が助かる」と言っていた将校が、米船へ逃げる者は殺せと命令した。

 兵隊の顔はどす黒く腫むくんで、肋骨が一本一本読めるほど痩せていたが、腹だけは妙にふくれていた。

「コプラ腹」とわれわれは呼んだ。椰子の実のコプラ〔ヤシの果実の胚乳を乾燥させたもの〕ばかり食べていたからだった。

写真はイメージ ©AFLO

「本物」のスープ

 このコプラの争奪戦は、飢えた狼さながらで、人間という気持は持っていられなかった。人を見れば「あの野郎生きてやがる。何か食っているんだ。その穴はどこだろう」とすぐ思う。巡察に来た肥った将校を見て、「うまそうだなあ」と思わず言った者があった。実際、人間を食いたいと思った。アメリカ兵が来たら、殺して食ってやろうかと言い合った。本物という言葉が流行った。防空壕の中で、いいにおいがする。はじめ魚のにおいかと思っていたが、犬も鼠も食い尽くした後だから、魚などあるはずがない。勧められるままに、スープを食べた。とてもうまかった。

 何だと聞くと、本物だという。本物って何だと聞いたが、なかなか言わない。結局、戦友の肉だということが分かった。「おれが死んだら、おれの肉を食え。お前が死んだら、お前の肉をおれが食う」。そう言い交わした相手が爆撃で死んだので、その戦友の肉を食っているということが分かった。この、同胞相食が始まってからは、独り歩きが出来なくなった。墓地には銃を持った歩哨が立った。死体を掘り返してくる奴があるからだ。砲台の下には、人間の骨がうずたかく積んであった。カボチャなどを盗んだ奴を歩哨が銃殺し、その男の肉を食ったという話もあった。