モーニングが生まれた理由は「繊維産業」?
一宮の喫茶店が、これほどまでのサービスを行うようになったのは、なぜなのだろうか。
「繊維産業が理由です」。一宮商工会議所が中心となって作る「一宮モーニング推進委員会」の委員長、森隆彦さん(58)と、副委員長の森幹昇(みきのり)さん(55)が口をそろえる。隆彦さんの本業は繊維会社経営、幹昇さんはカメラ店経営だ。
奈良時代から繊維の産地だった一宮が繁栄を極めたのは、戦前から高度経済成長期にかけてだ。
「織機が一度ガチャと動くと1万円もうかったと言われ、ガチャマンという言葉が生まれたほどでした。でも、ガッシャン、ガッシャンとうるさくて、会社の外に出ないと話が聞こえません。そこで繊維会社の親父や社員が商談などで喫茶店を使うようになりました。こうして一日に何度も訪れる客のために、人のいい店主が『まあ、卵でも食べてよ。これも食べてよ』と出したのが始まりです。客寄せではなく、もてなしがルーツでした。早い店では56年にはサービスを行っていました」と、隆彦さんが説明する。
そもそも「一宮人」はお茶好きだったようだ。隆彦さんは「私の母の世代は茶道具を持って嫁入りしたそうです」と話す。「農家も作業の合間に抹茶で一服という文化がありました」と幹昇さんも語る。
「一宮」の名前を全国に知らしめたい
だが、繊維産業はオイルショック後、斜陽化していった。バブル経済崩壊後は生産拠点を海外に移す企業が相次いだ。列車で約15分の名古屋に通勤する住民が増え、まちとしての活力を失った。
「一宮と言っても分かってもらえないからでしょうか。どこから来たのかと尋ねられて、『名古屋』と答える一宮人が多くいます。親しくなると『実は名古屋の近くの一宮から来た』と打ち明けるのです。これではまちの活性化も、市の将来もありません。一宮人が『一宮から来た』と誇りを持って言えるようにしないと」。隆彦さんは力説する。
十数年前のことだ。一宮商工会議所の当時の会頭が「繊維でなくても一宮の名前を全国に知らしめることはできないか」と、青年部に投げかけた。隆彦さんと幹昇さんは青年部の役員だった。
まず取り組んだのは土産物づくりだ。煎餅などを作製したが、あまり買ってもらえなかった。「地域に根ざしたものでないとダメだ。人に話したい、自慢したいと感じるようなものでなければならないと気づいたのです」。隆彦さんは振り返る。
そこで思いついたのが、喫茶店のモーニングサービスだった。
名古屋にモーニングはなかった
隆彦さんや幹昇さんは高校時代、名古屋に出かけてカルチャーショックを受けた経験がある。喫茶店でいくら待ってもコーヒーしか出てこなかったのだ。「一宮では当たり前のことが、そうではなかったのです」と、幹昇さんは苦笑する。今でこそモーニングで売り出している名古屋だが「当時はまだサービスを見かけなかった」と、隆彦さんも言う。
一宮では繊維産業が廃れた後も、コーヒーを飲む習慣は残った。
このため38万人強の人口に対して、少し数字は古いが571もの喫茶店が存在している(2014年経済センサス)。
「常連しか来ず、午後には閉めてしまう小さな店も含めて、市内には各地区ごとに何軒も店があります。地元の高齢者が、知り合いと話をするのを楽しみにして毎朝通うのです。来ていないと仲間うちで心配して連絡を取り合うようです」と、喫茶店「イーグル」のオーナーで、県喫茶飲食生活衛生同業組合の副理事長、鷲津尚宏さん(74)は話す。
豊富なモーニングメニューからも透けて見えるが、個性的な店が多い。冒頭の2店のように量で勝負する店もあれば、独特の雰囲気で客を引き寄せる店もある。