母の影響で宝塚のファンになり、幼稚園時代はまわりの子供が童謡を歌うなか、一人宝塚歌劇のラブソングを歌うような子供だった。幼稚園帰りはいつもいじめっ子に泣かされていた気弱な一面もあったようだ。
一方、やなせたかしも自伝『アンパンマンの遺書』(岩波現代文庫)で、幼いころは負けず嫌いで、勝負ごとにまけては泣いてばかりいたと明かしている。「手のひらを太陽に」が今も多くの子供を元気づけるのは、二人が幼いころにたくさん涙の味を味わったからかもしれない。
いずみは名門・東京府立第五中学校(現在の都立小石川高校)に入学するも、飛行機乗りにあこがれて14歳で親元を離れ、仙台陸軍幼年学校へ。そこでも音楽好きは変わらなかったようで、軍歌練習中に勝手にハモりパートをつけて歌い、上級生に殴られたこともあったという。
いずみの人生を決定づけた出来事
1945年、15歳で終戦を迎えた。やなせたかしが戦争を通じて逆転する正義のむなしさを痛感していたころ、いずみもまた、自身の生きる意味を見失っていた。
東京に戻り旧制中学に復学するも、かつての同級生たちとの学力差にがくぜんとした。いずみが陸軍幼年学校で訓練を受けている間も、同級生は東大目指して一心不乱に勉強を続けていたのだ。絶望した彼は、ふらふらと上野の闇市をさまよい歩き続けた。「僕は一体、何をすればいいのか」――。
自問を続けた末、ふと心に浮かんだのが、演劇だった。そのまま中学の演劇部に入部し、みるみる芝居の世界にのめり込んでいった彼は、鎌倉アカデミア演劇科や舞台芸術学院などで学びながら劇団を発足。公演で全国を回った。『あんぱん』初回登場時のいせたくやのモデルは、このころの姿だろう。
ある山形の公演で、いずみの今後を決定づける出来事があった。会場となった山中の小学校は、老人から子供まで観客で膨れ上がっていた。芝居の準備中、いずみがアコーディオンを手に舞台に立ち、観客にロシア民謡の「カチューシャ」を歌唱指導する場面があった。