「手のひらを太陽に」の秘話
当時、やなせは自分の仕事に悩んでいた。『あんぱん』でも、嵩(演・北村匠海)が広告制作の仕事では認められながらも、漫画が思うようにかけず焦りを感じるシーンが描かれている。史実でも、やなせは三越百貨店勤務時代から少しずつ漫画を描いていたものの、ヒットには恵まれなかった。
フリーになった後も、ラジオやテレビの仕事、イラストの仕事などをこなす毎日。忙しい毎日を過ごしつつも、焦りを感じていた。徹夜で仕事をする中で、なんとなく手のひらに懐中電灯をあてて遊んでいたら、血の色がびっくりするほど赤かった。「自分はこんなに落ち込んでいるのに、自分の血はせっせと紅く、熱く流れている」――。
そのことに励まされた気がした。この詩に曲をつけてほしい、といずみに依頼して出来上がったのが「手のひらを太陽に」だ。1961年に発表され、NHK「みんなのうた」で放送されると、またたく間にお茶の間に広まった。
もうアンパンマンの以外の童謡をつくらない
この曲以降も、2人は長きにわたって共に曲を作り続けた。『アンパンマンの遺書』によると、いずみがあまりにヒットソングを連発し、時代の寵児となっていくのを見て、一時はやなせが遠慮して離れていた時期もあったという。
それでも結局30年以上にわたって交流は続き、1973年からは「0歳から99歳までの童謡」という企画を立ち上げ、2人は無償で月に1曲童謡を作り続けた。
いずみが最期に手掛けたのは、アンパンマンミュージカルの劇中歌だった。この時いずみは病床で、鉛筆を持つ力がなくなっていたという。妻は「この歌は他の人に頼みましょう」と提案したが、いずみは首を縦に振らなかった。「いや、僕が作曲する。僕が口でメロディーを言うから、写譜してくれ」。そうして曲を作り上げたのち、いずみは62歳で生涯を閉じた。
いずみ亡きあと、やなせはアンパンマンの以外の童謡は一切つくらなくなった。『ボクと、正義と、アンパンマン』(PHP研究所刊)のなかで、やなせはこう振り返っている。
「誰とでも仕事をするというほどボクは器用ではありませんので、この仕事はいずみたくの死で終わったと思っています」。
フリーライター
時事通信社記者、宣伝会議「広報会議」編集部(編集兼ライター)、朝日新聞出版AERA編集部を経てフリーに。 AERA、CHANTOWEB、文春オンライン、東洋経済オンラインなどで執筆。2児の母。
