「さあ、皆さん、もっと大きな声を出して!」
しかし、いくら声をからして指導しても、観客の声は会場に響かなかった。子どもも老人もロシア民謡を一生懸命歌おうとするものの、口をモゴモゴとさせるばかり。その時、いずみは、胸に迫るものを感じたという。観客は歌いたがっている。それも、日本の歌を。
永六輔が2人をくっつけた
「みんなを歌わせるためには、日本の歌を作らなくては。いつまでも『カチューシャ』や『トロイカ』じゃだめなんだ。もっと身近な生活の歌――」
この思いが、後に生涯で約1万5000曲もの曲をつくりあげた、いずみの原点となる。
作曲家になろうと決意した彼は、劇団を辞め、タクシー会社や運送会社で働きながら、作曲家の芥川也寸志(やすし)に弟子入りして音楽を学ぶ。その後、作詞家の三木鶏郎(とりろう)が率いる「冗談工房」に参加。永六輔や野坂昭如らと組んで、数々の曲を手掛けていく。
その後、野坂昭如と制作会社を立ち上げ、2年間で200曲近くのCM曲を作り上げた(ちなみに、40代以上には耳なじみのあるCM曲「伊東に行くならハトヤ」も2人が手掛けたもの)。
一躍売れっ子作曲家となったいずみだが、本人は自分に満足していなかった。CM曲がヒットするたびに、小さくなっていく自分を感じた。やっぱり演劇をやりたい――。いつしかそんな思いが強くなっていった。
そんな矢先、突然永六輔から声を掛けられる。
「たくちゃん、ミュージカルを作ろう! 他には絶対ないやつを!」。その舞台美術として白羽の矢が立ったのが、やなせたかしだった。この舞台「見上げてごらん夜の星を」が、いずみたくとやなせたかしの、本当の出会いのきっかけだった。
「やなせサンはとても不思議な人だ」
『アンパンマンの遺書』によると、ある時、永六輔が、突然、荒木町のやなせたかしの自宅を訪ねてきたという。
短髪ですりきれたジーパンを履きこなしたすらりとした青年だった永は、初対面のやなせに「ミュージカルの舞台装置をやなせさんにお願いしたい」と唐突に切り出した。やなせは舞台装置の経験もなく、ミュージカルもよく知らなかった。あっけにとられている間に、永は「それじゃお願いします」と風のように去っていったという。