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「うちは62年前に誤報をしている」

——班の発足時のことで、印象に残っていることは何ですか?

 「榊、分かってるだろうな。命かかってるからな。うちは62年前に誤報をしている。その汚名をそそいでもらわなきゃいかん」と、当時の政治部長や首相官邸キャップから厳命されました。62年前の誤報というのは俗に言う「光文事件」。大正から昭和に改元される時に、毎日新聞の前身である東京日日新聞が勇み足で「新元号は『光文』」と報じてしまったことがあるんです。ですから、私たちにとって元号報道は、ある種のトラウマでもあったんです。とはいえ、発足にあたってこう言われるとは、さすがに思いませんでしたけれどね。

 

——相当なプレッシャーだったと思いますが、班としての仕事はどんなことからスタートしたんですか。

 まさに手探りでした。資料として「X号対策」だったかな……、そういう名前の薄っぺらなファイルを渡されましたが、昭和54年に制定された元号法についてのメモが挟まっているくらいのもので、「これは一から勉強しなきゃならないな」と。そこで天皇崩御の際にはどんな行事が行われ、大正への改元の際はどうだったか、昭和改元の時はどうだったか、古い文献にあたったり、専門家にレクチャーを受けに行ったりしました。同時に、それを元に予定稿もどんどん準備していきました。

元血盟団の四元義隆さんにも取材しました

——もちろん、新元号がどう決められていくのか、その辺りの取材も並行されていたのですよね。

 そうです。政権が中曽根首相から竹下首相に引き継がれた時期にスタートしました。元号班が取材対象としたのは、元号案件を取り仕切る内閣の内政審議室の室長、的場順三さんと福島忠彦審議官。それから元号問題を所轄し、のちに「大喪の礼」「即位の礼」の諸行事を政府側として取り仕切ることになる官房副長官の石原信雄さん。的場さんには「元号の考案者にはこの人が入るんじゃないですか?」という“当て取材”をしたものですが、聞くと「いやまぁ、こういう人は入るかなあ」なんて、結構わかりやすい反応をしてくれましたね(笑)。何せ、新元号に関わることは秘密にしておかなければならないことだらけ。おそらく的場さんも、仕事のあまりの重苦しさをどこかで吐き出したかったんじゃないでしょうか。

 

——政府関係の取材対象は的場、福島、石原といった方々の他にも広げていたのですか?

 官邸詰めの複数の記者と手分けしてです。小渕官房長官、藤森宮内庁長官あたりは官邸、社会部の援護もありました。宮内庁は社会部の管轄ですからね。それから、政界のフィクサーと呼ばれた四元義隆さん。戦前の血盟団事件、あの血盟団のメンバーだった方ですが、鎌倉から横浜へ移動する時に車に乗せてもらって話を聞きました。もしかしたら政府中枢が四元さんになら何かを漏らしているかもしれないと思ってのことですが、さすがにあれは緊張した取材でしたね。