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「毎日新聞が来ても絶対に喋っちゃあきまへんで」

——元号担当の政府関係者に取材を続ける一方で、「元号考案者は誰で、どんな元号案が提出されているのか?」という取材も同時並行されていたのですよね。

 建前上は天皇崩御後、急ぎ招集された有識者に対して複数の元号案の考案が委嘱され、続いて閣僚の意見も聞いて、新時代にふさわしい元号が選定される、という流れになっていました。ただ、現実的には短時間にその先何十年も用いる元号を選定することは無理な話。暗黙の了解として、水面下で新元号案を選定する作業は進められていたわけです。元号考案者として名前が挙がっていたのは“歴代首相の指南役”だった陽明学者・安岡正篤や、『諸橋大漢和』の漢学者・諸橋轍次などでした。その中で、私たちが取材して印象的だったのは中国史学者・貝塚茂樹氏の奥様との面会です。

 

——奥様のほうですか。

 私たちが貝塚夫人にお会いしたのは「元号班」が発足して2ヶ月後の昭和62年11月のこと、貝塚先生はその年の2月にお亡くなりでした。ただ、取材を進めていくうちに貝塚先生が元号考案者のお一人だろうという確信が強くなっていきました。亡くなった人物の案は採用されないことは知っていましたが、出された案が何だったのか、どうやって考案されたのか、「元号取材」の手がかりとして知っておきたかったのです。そこでまず、ご子息で当時東大経済学部教授だった貝塚啓明先生にお会いして「お父様、考案者でいらっしゃいますよね?」と当てたんです。すると、ちょっと口元が緩んだんです。その後、奥様の元へ参じたのですが、お会いするなり「息子から『毎日新聞が来ても絶対に喋っちゃあきまへんで』って言われまして」って言うんですよ。ああ、これはもう100%間違いなく、考案者でいらしたんだなと(笑)。

 

元号案「文思」が書かれたノート

——取材には応じてくださったんですか?

 お供えの花を持って訪問し、ご自宅の広い応接間に通されました。お訪ねした趣旨を告げて少し粘ったら、A4くらいの小さなベージュ色のノートを持ってこられました。最初は開いても、中身はこっちに見せてくださらない。ただ日付は忘れましたけど「的場室長お見え」と書いてあるとおっしゃるんです。ドキドキです。内政審議室長の的場さんが、来られたことが判明した。さらに「奥様、先生は元号案を提出されておられますよね? どんな元号案だったのか教えてくださいませんか?」と畳み掛けたんです。すると、そのノートのある箇所を開いたまま、机にペタッと伏せて置かれました。そして「ちょっと、お紅茶を入れてまいります」って部屋から出て行かれた。

——困りますね(笑)。

 一緒に行った小松君が「榊さん、見ちゃいましょうよ」って(笑)。私も悩ましかったですけど、ここは本人の同意を得てから見ようと。ところが、お茶がいつまでたっても出てこない。「見ましょうよ、やっぱり」「いやあ、ダメダメ」って、ずいぶん長い時間に感じましたね。5分か10分の世界なんですけど。ようやく奥様が紅茶を運ばれてこられたので、切り出しました。「次の元号案を事前に報道することは有り得ません。ただ、出典やご主人のご遺志など正確に報じるには、やはり事前にお教えいただきませんと……」と迫りました。すると、「絶対守ってくださいね」と言われてから、伏せてあったノートをひっくり返されて。

 

——そこには何が書かれていたんですか?

 文思。文思(ぶんし)、という2文字が書かれていたことは、今でも鮮明に覚えています。貝塚先生が政府に提出した新元号案の一つは「文思」だったと判明したんです。胸が高鳴りました。この調子でいけば、やがて複数の元号案にたどり着くのではないかって希望を持ちましたが、結局そううまくはいかずに、具体的な案にたどり着いたのはこの時が最初で最後でした。