その後、中学のフォークソング部に入り、チャリティーコンサートで歌うようになる。その頃、香港でアマチュアの歌手12人を集めてアルバムを出そうという企画があり、残る1人が決まらないというところで当時15歳のアグネスに誘いがかかった。曲を選ぶために渡されたテープの1曲目に、カナダのシンガーソングライターのジョニ・ミッチェルの「サークル・ゲーム」が入っており、聴いてすぐ気に入った彼女は同曲をカバーしようと決める。リリースされたアルバムは予想以上に売れ、なかでも彼女の歌は翌1971年にはシングルカットもされた。これが歌手アグネス・チャンのデビューとなる。
このシングルが大ヒットし、彼女はたちまち香港のアイドルとなる。『アグネス・チャン・ショー』というテレビのレギュラー番組まで持ち、映画からも声がかかって、俳優だった5歳上の姉のアイリーンが留学先の日本から戻って出演した作品をはじめ3作に出演した。
“香港から来た妖精”日本デビューのきっかけは?
日本デビューのきっかけは、アグネスの自伝『ツバメの来た道』(中央公論社、1989年)によれば、姉のアイリーンが日本で歌を教わっていた作曲家の平尾昌晃が香港に来た折、『アグネス・チャン・ショー』にゲスト出演してもらったことだ。このとき彼女が1枚だけ出したソロアルバムを贈ると、平尾は帰国してからそれを音楽関係者に聴かせたのか、日本での歌手デビューの話が持ち上がった。このとき彼女に声をかけてきたなかに、のちに所属する芸能事務所・渡辺プロダクション(現・ワタナベエンターテインメント)とレコード会社のワーナー・パイオニア(現・ワーナーミュージック・ジャパン)があった。
渡辺プロダクションの松下治夫制作部長(当時)の話では、当初はアイリーンを日本で歌手デビューさせたいという話を、東宝から作曲家のいずみたくを経て松下に託されたものの、歌唱力がいまひとつだったため断ろうとすると、アイリーンから妹も歌手をやっていると教えられたという。そこで松下は香港へ飛ぶと、テレビで歌うアグネスのあどけないルックスに目をつけ、アイドルとして売り出そうと考えたらしい(『読売ウィークリー』2006年2月26日号)。
このころ、渡辺プロ所属の天地真理や小柳ルミ子のほか、南沙織といった若いアイドルが次々とデビューする一方、台湾出身の歌手・欧陽菲菲が日本で「雨の御堂筋」をヒットさせ、外国人歌手がブームになり始めていた。アグネスはそのいずれにも当てはまった。

