「ひなげしの花」のレコーディングは難航し…
1972年6月に初来日したアグネスはさっそく事務所とレコード会社と契約を済ませると、レコード制作に入った。日本でのデビューシングルとなる曲の選考は難航し、検討を重ねに重ねた末、候補となった2曲――平尾昌晃から提供された歌謡曲調の曲「初恋」と、山上路夫作詞・森田公一作曲の「ひなげしの花」のうち、後者に決まる。
しかし、社会性のあるメッセージソングを歌いたかった当時のアグネスには、少女が花占いをするというこの歌が他愛のないものに感じられ、あまり気に入らなかったらしい。メロディもとても歌いにくく、レコーディングはさらに難航する。日本語の発音に慣れず、何度もダメ出しされた上、歌い方にも「もっと元気に」「もっと明るく」とさんざん注文を受けた。しかし、彼女は自分には自分の歌い方があると納得がいかず徹底してスタッフに反発し、3週間の日本滞在中数え切れないほど泣いたという。
どうしても譲れなかった“出だしの歌い方”
出だしの「丘の上」を「オッカノウエ」と歌う独特の節回しも、スタッフから何度も注意された。《それでも私は、どうしてもオとカの間のテンポを強調したくて、最後の最後まで自分の歌い方を守り通した。(中略)それにしてもその時は「ッ」が入ることによって言葉の意味が違ってしまうなんてことは、まったく考えていなかった》とのちに彼女は顧みている(前掲、『ツバメの来た道』)。あまり気乗りしない歌を何とかして自分のものとするためにも、それだけはどうしても譲れなかったのだろう。
アグネスはレコーディングを終えると、香港で映画の撮影が残っていたこともあり9月にはいったん帰国、12月に再び来日し、渡辺プロの渡辺晋社長の家で下宿しながら本格的に日本での芸能生活をスタートさせる。
この間、11月には「ひなげしの花」が発売され、アグネスの歌い方もあいまって32万枚を売り上げる大ヒットとなった。翌1973年には同曲で紅白歌合戦にも初出場する。同年リリースの3枚目のシングル「草原の輝き」は平尾昌晃の作曲で、これも大ヒットし、日本歌謡大賞の放送音楽新人賞を受賞した。このとき彼女は初めて日本の歌手として認められた気がして、うれしく思うと同時に自信がついたという(『週刊現代』2006年11月25日号)。同曲は日本レコード大賞の新人賞も受賞し、翌春のセンバツ高校野球の入場行進曲にも選ばれた。

