引退コンサート後、復帰するつもりはなかった

 マスコミからは批判も受けたが、それでもファンは彼女を温かく見送ってくれた。1976年8月に東京・大阪・名古屋を巡った引退コンサートでは、いつのまにか場内総立ちの大合唱となり、舞台には数えきれないほどのテープが投げ込まれたという。コンサートの最後、彼女は涙で言葉が途切れ途切れになりながらも、《ひとつだけ約束します。この三年八ヵ月の思い出、いつまでも胸の中にしまっておきます。どこへ行っても、私、一生懸命やります。そして、必ず戻ってきて、みなさんと会いたい。いつまでも友達でいたいの》と告げた(前掲、『ツバメの来た道』)。ただ、「戻ってくる」とは言ったが、歌手として復帰するつもりはなかったという。

カナダ留学による活動休止に際し1976年に開催されたコンサートのライブ・アルバム『また逢う日まで』(2021年復刻版)

 カナダのトロント大学に編入した彼女は、上智大学に続き児童心理を学んだ。留学して半年後の1977年3月には父が病気で死去するが、悲しみを乗り越え勉強を続ける。翌1978年の大学卒業前には大学院への進学も決まっていた。

 そんな折、母が訪ねてきて、「パパがいなくなって寂しい。おまえにもう一度歌ってほしい」と涙ながらに言われた。アグネスは、父に病床で「ママを大事にして」と頼まれたのを思い出すと、カムバックすると答えたという(『女性セブン』前掲号)。こうして大学を卒業後、彼女は引退宣言から2年で日本の芸能界に復帰する。直後には日本武道館でコンサートを開催した。

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初めての「売れない」という体験

 復帰後の彼女は本来やりたかったメッセージ性の高い音楽を志向していく。もともと留学前からバックバンドをムーンライダーズや矢野顕子が務めるなど、周囲には気鋭のアーティストが集まっていた。作詞家の松本隆が歌謡曲の歌手に初めて詞を書いたのも、アグネスの「ポケットいっぱいの秘密」(1974年)だった。1983年には、上記の矢野や山崎ハコ、りりィなど作詞・作曲・アレンジすべてに女性クリエイターを起用して、初めてアグネス自ら全編通してプロデュースしたアルバム『Girl Friends』をリリースしている。

アグネス・チャン「ポケットいっぱいの秘密」(1974年)。霜降り明星のラジオでこの曲を用いたコーナーが設けられたことでも知られる

 しかし、この路線は成功しなかった。アグネスはデビュー以来初めて「売れない」という経験をする。この行き詰まりを何とかすべく、渡辺プロで1982年より彼女を担当していたマネージャーがあるアドバイスをしてくれたのだった――。

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