大阪生まれ、ジャカルタで暮らしたことも
1971年、大阪生まれ。幼少期はインドネシア・ジャカルタで暮らした経験がある。日本に帰ってからは、「人と合わない」という違和感を抱えたまま暮らしていた。
中学1年のとき、趣味で坊主にしていたエピソードがある。土曜日、学校から帰ると髪をモヒカンにして、日曜日の夜に全部刈り、月曜は坊主で学校に行く。学校に坊主の子はほとんどいなかった。まわりで流行っているものにも興味が持てなかった。
「人と合わないというネガティブな衝動を抱えて生きていました。それゆえに、自分の本当の感性を表に出せなかった」(朝日新聞デジタルマガジン&M 2019年10月31日)
そんな津田がハマったのが映画だ。中学の頃から名画座に通い詰め、チャップリン、オードリー・ヘップバーン、ジェームズ・ディーンらの映画を観続けた。その後、ミニシアターの勃興に合わせて、さらに映画にのめりこむ。映画の話になると、テリー・ギリアム、ジム・ジャームッシュ、スパイク・リーらの監督の名が次々挙がる。最も影響を受けた映画はフェリーニの『8 1/2』とエミール・クストリッツァの『アンダーグラウンド』だという。
「映画館に行くと頭がぶっ飛んだ人がものすごくぶっ飛んだものを作ってて、しかもそれが世界的に評価されているとか、めちゃくちゃかっこいいなって思ったんです。僕のアイドルは偉大なる表現者たちだった」(『日曜日の初耳学』2024年3月10日)
「気の迷いで」演劇の道へ
映画監督を志した津田だったが、何を撮りたいのか具体的に固まらず、脚本が書けないまま、「気の迷いで」演劇の道へ進んで演劇集団円の養成所に入り、舞台での活動に没頭する。
「それまで抱えていたダークなストレスみたいなものが芝居の台詞を借りて乗っけられたんですよね。人嫌いとか、世間なんてとか。そういうものを出していい場がなかったんですけど、こんなに面白い世界があるんだって」(『日曜日の初耳学』同前)
津田は、これまでたまりにたまっていた負の感情を舞台で爆発させた。しかし、劇団には所属できず、出演作にも恵まれなかった。蜷川幸雄作品のアンサンブルとして出演したときは、舞台袖でボヤを起こしてシアターコクーンを燃やしかけたこともあった(『電撃Girls Style』2012年10月号)。




