藤井フィーバーと「天才」の生まれ方
――杉本八段の目から見て、小説で描かれる天才棋士と元天才棋士の関係性は、現実の将棋界にも通じるものがありましたか?
杉本:ええ。自分たちの世界も外からはきっとこう見られているんだろうなと思いましたし、実際、最近はちょっと活躍していないけれどご本人はどう思ってるのかな、などと思うことはありますね。
額賀:作中の天才棋士・明智昴が世間から持て囃されている様子は、やはり「藤井フィーバー」の頃を思い出しながら書きました。
杉本:「天才は、それを観測する人がいるからこそ成り立つもの」という書き方には「なるほど」と思いました。何か大きなことを達成する本人は、別に注目されたくて頑張っているわけではなくて、自分にとって楽しいことをやっていたいだけなんだけど、周りがそれを放っておかない。そういう存在があるからこそ、将棋に興味がなかった方にも関心を持ってもらえるわけですが。
額賀:藤井フィーバーの中で一番印象に残っているのが、対局中の藤井棋士のお昼ご飯は何かという予想で盛り上がっていたことです。将棋会館の近くのお店にテレビ局の人が待機していて、注文が入るのを今か今かと待っている。空振りの可能性もあったと思うのですが、私が見ていた日はたまたまそこに注文が入り、店主の方がバイクで運んでいく後ろ姿をカメラがずっと追っていたんです。それを見たとき、「とんでもないことが起きている」と思いました。
杉本:あれはちょっとびっくりしましたね。でも、食べ物のネタって絶対外さないんです。将棋を指さない人はたくさんいるけど、ご飯を食べない人はいませんから。だから、テレビ局の人は自分たち棋士とは視点がまったく違うなと思いました。一般の人が食いつくのはどこかと考えたら、ご飯なんだなと。
世間が勝手に才能をジャッジして
――作中には「こうやって天才が天才として世間に受け入れられていく瞬間を、何度も見てきた」という言葉があります。杉本八段も、そうした瞬間を数多くご覧になってきたのではないでしょうか。
杉本:そうですね。ただ、どちらかといえば、受け入れられなかった天才の方をたくさん見てきたような気がします。将棋界では評価されていて実績も十分な棋士も、よほど何か分かりやすい活躍をしない限りはどうしても大きく取り上げてもらえません。まさに作中で描かれていましたが、みんな天才なのだけど、一般の方にまで知られる天才もいれば、そうじゃない天才もたくさんいるんですよね。
額賀:本当にそうですよね。小説家の世界でも、天才と言われながら売上や知名度の点であまり認知されていない人は大勢います。つくづく、天才とはその才能を「見る」側の認識で生まれるものなんだなということを、作品を書きながらも書き終えてからも思いますね。
杉本:本人が天才を名乗るわけじゃないですからね。その人の中ではそれが基準だから、自分に才能があるとか天才だとかは絶対思ってないんですよ。世間が「この人は天才なんだな」と判定する。
今回のお話で言えば、中学生棋士が天才として描かれていますけど、これが数ヶ月遅くて高校生だったら、また違いますよね。本人の才能は何も変わらないのに。
額賀:ある意味、世間が勝手なんですよね。勝手にジャッジして、「天才中学生棋士が生まれた!」となるか「高校生棋士はまあ、別に珍しくないか」みたいになるか。
杉本:この差って何だろうな、と思うことはあります。

