「初の日本一」からわずか2年後に最下位へ
情報の収集もなければ、分析もない。ただ選手たちが自分の素質で戦うだけ。こんなことでは勝てないだろうと思ったが、そんなにひどいことにはならない。逆に考えると、当時の阪神は素質の高い選手が揃っていて強かったと言える。
しかし、あくまでもある程度なんとかなるというだけのことで、すべてがうまくいくというわけではない。だから、優勝できるほどではなかった。吉田さんは3年監督をやって退任。ご存じのとおり、それから8年後の1985年シーズンに2度目の監督就任となり、球団初の日本一になる。
すでに私は現役を退いてはいたが、話は聞いている。時が過ぎてすでにプロ野球はクセ盗み、サイン盗みが全盛期。しかし天才型の吉田さんは、そんなことは思いも寄らない。そこで吉田さんの知らぬところでコーチたちが自由に情報戦を展開、それが見事に成功し、阪神打線は打ちまくり、日本一になった。
しかし、吉田さんはそんなこととは知らない。「名将」と呼ばれて気を良くして自分でサインを出すようになり、情報戦は崩壊。2年後の1987年には最下位になってしまった。天才型の監督は厄介なのだ。
「人のいいオヤジ」が監督になると……
1978年、次に監督になったのは法政の先輩、後藤次男さん。1969年に1度監督をやっていて、9年ぶり2回目の監督となる。結果的にどちらも1年のみで退任。自他ともに認める「つなぎの監督」という役割だった。
「つなぎの監督」といえば、巨人の藤田元司さんが有名だ。希代のスーパースターであるON(王貞治、長嶋茂雄)が、巨人の監督としてどのような野球をやるのかに世間の注目が集まる中、黙々とその間の時期を2度にわたってつなぎ、つなぐどころか立派な成績を残した。
後藤さんも藤田さんと同じように「つなぎの監督」を2度やった。吉田義男、村山実というふたりのスーパースターの間をつないだのだ。1度目は2位。まずまずの成績を残したため、もう1度と声がかかったのだろう。
しかしそのときにはすでに、みんなが親しくしているOBのおっちゃんだった。ときどき解説の仕事、評論家の仕事をして、甲子園の近くに住んでいて、パチンコや、OBの仲間を集めてする麻雀が趣味の人。なんというか「人のいいオヤジ」だった。
