しかし、次のシーンではこれらの写真が、現在の悦子が家の片づけをする中で見つけたものであることが示される。本作が「客観的な歴史」ではなく、あくまでも「個人の視点での歴史」に留まることを示唆する重要なシーンであり、以後はあくまでも彼女たちの生活圏内において、物語は進んでいく。
そののち、ふたつの時代を旅するなかで、映画でもまた、現実を離れた記憶の迷宮のような場所を、観客はさまよい続けることに気づかされるだろう。
画面に現れず、言葉としてしか登場しない数々の出来事
とはいえ、小説と比較し、映画は「あいまいさ」とそこまで相性が良いとは言えないかもしれない。回想の場面だという前置きがあるとしても、俳優が演じ、同時代の風俗が精緻なかたちで再現される以上は、そこに直接的には、あいまいという印象は覚えづらいからだ。
もちろん、フレームの形を変えたり(一例としては、木下惠介『野菊の如き君なりき』)、過去をモノクロで表現するなどして、回想のシーンにどこか限定的な印象を与える作品も少なくはないとはいえ、映画『遠い山なみの光』はそのような戦略はとらない。あくまでもじりじりとした形で、本作は「あいまいさ」を醸し出していく。
ひとつは、悦子をはじめとした登場人物の心の奥底に深く留まっているであろうできごとが、言葉としてしか作品には登場しない点である。
たとえば、かつての悦子が真夜中によくバイオリンを弾き、家中を起こしていたというエピソードや、佐知子が戦時中の東京で、赤ん坊を水の中につけている若い女を見たというエピソード。また、二郎が複雑な心情を抱えつつ出征に臨む自分を、父である誠二(三浦友和)が誇らしげに万歳三唱で送り、そこにわだかまりを覚えたというエピソード。それらはおそらく、彼女ら彼らの道のりを考えるうえで軽視のできない一幕であることを匂わせながらも、しかし、直接的に画面の上では現れない。結果としてそれらの言及シーンは、奇妙な浮遊感を作品にもたらすこととなる。


