まず浮かんだのは、「あいまい」という言葉だった

『遠い山なみの光』という映画を見てまず頭に浮かんだのは、「あいまい」という言葉だった。

 イギリスに暮らす初老の女性・悦子(広瀬すず/吉田羊)は、長女である景子の自死に直面したことから、彼女を身ごもっていたころの長崎での暮らしを思い返すようになる。それは戦後7年目の1952年のこと。団地で夫・二郎(松下洸平)と暮らすなかで、悦子は佐知子(二階堂ふみ)という同世代の女性とつかの間の交流を得る。佐知子は娘・万里子(鈴木碧桜)と掘っ立て小屋のような家に暮らし、アメリカの占領軍兵士とともに、渡米することを夢見ているようだ。しかし、佐知子との交流の中で、悦子はしだいに不安な心情を覚えるようになり――。

©2025 A Pale View of Hills Film Partners

 カズオ・イシグロによる原作はいわゆる回想劇であり、悦子が現在の視点から、かつての自分や周囲の状況を振り返るといった内容になっている。

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 そもそも、回想とはどのようなものか。それは、人間の思考力や記憶力に限りがある以上、多くの場合はあいまいで、かつ主観的なものとは言える。じっさいに原作においては、「こういう記憶もいずれはあいまいになって、いま思い出せることは事実と違っていたということになる時が来るかもしれない」「記憶というのは、たしかに当てにならないものだ」など、悦子が自身の回想の真実性について、懐疑的な視点を挟み込む場面は折に触れて現れる。そして、いわば虚実がしだいに溶け合い、彼岸の際に立たされているような感覚を、いつしか小説『遠い山なみの光』の読者は味わうこととなる。

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 そうしたことを踏まえると、映画『遠い山なみの光』の冒頭は、小説が与える風合いとはやや趣を異にするように思える。まず原作と異なり、本作の背景は「1952年の長崎」「1982年のイギリス」とはっきりと時代が特定される。また、序盤にアップで提示される、建設中の長崎の平和の像、街にたむろする米兵相手の売春婦、遊ぶ子どもたちの姿などをうつした白黒の写真からは、一見すると本作が「客観的な歴史」を提示しているように感じさせるからだ。