際立つ「原爆の作品」としての輪郭
さて、原作と映画におけるもうひとつの大きな違いとしては、映画は「原爆」により焦点化していることである。作品の始まりからしてそれは指摘できる。そもそも、悦子が過去の回想をはじめたのは、作家を志す次女のニキ(カミラ・アイコ)が、母の長崎における経験をルポルタージュとして編纂しようとしたことがきっかけであることが示され、またふたりの会話では、イギリスで行われている反核運動と対比するかたちで、長崎の原爆が語られる。悦子が被爆の有無をめぐって二郎と会話をするシーンなどもふくめ、『遠い山なみの光』の「原爆の作品」としての輪郭は、原作よりもかなり際立っている。
同時に、本作における原爆は、これまで言及した作品の諸要素と同様に「あいまい」である。その影がもっとも色濃く顕現するのは、前述のバイオリンのエピソードのなかで、悦子が「あの日」のことに思いを馳せる一幕である。自身が多くの命を見殺しにしてしまったと吐露する悦子の声にかぶさるようなかたちで、おそらくは、原爆に関連すると思わしき飛行機の騒音や子どもの悲鳴が画面には鳴り響く。しかし、それが原爆によるものだとははっきりと断定できず、やがて音も画面から離れていく。そして、もっとも「原爆」に肉薄したこのシーンをふくめ、原爆の直接的な被害はついに、作中にその姿を現すことはない。
本作が公開されるのが戦後80年という節目であることを考えれば、作品でより「原爆」を顕在化させる選択そのものにはとくに違和感はないだろう。では、本作における「原爆」は、どのような意味があるのだろうか。
かつて『遠い山なみの光』の映画化を熱望した吉田喜重は、広島の原爆をモチーフとした最後の長編作品『鏡の女たち』を撮るに際して、原爆は「再現できないもの」であるという由を述べた。
「あの瞬間の閃光を見た人たちは死者であることを思えば、生き残った人間がそれを見ることができるはずがありません。それを虚構として再現できるはずがないのです」(※2)

