日本人が戦争や原爆を考える上での試金石
本稿では原爆映画の系譜を詳細にたどる余裕こそないものの、かつて原爆を描くことについて、「声高であってはならない」と語った今村昌平(『黒い雨』)や、「絶対にフィルムには収められない」と語った黒澤明(『八月の狂詩曲』)など、これまで「原爆」をモチーフとした作品を生み出してきた、少なからぬ映画人に抑制的な姿勢は見受けられ、監督である石川慶もいわば、こうした姿勢を重視したのだと言えるだろう。そうしたことを考えたのち、改めて前述の「寸止め」に終わる原爆のシーンを思い返すと、そこには、かつての「あの日」を自身の手で再現したいという欲求を持ちながらも、しかし当事者ではない自分が再現することはできないのだ、という作り手の葛藤が滲み出ているように感じられてくる。
「あいまい」な立場で、「原爆」ひいては「戦争」の記憶を描くということ。言葉にすると、不誠実な態度であるように思われるかもしれない。しかし、原作の「記憶というのは、たしかに当てにならないものだ」という言葉をここでふたたび拝借すれば、人間の記憶に限りがある以上は、そうした記憶の語りには、不可逆的にあいまいさや、実際のできごととのずれが入り込む。しからば、そうした「あいまいさ」を除去するのではなく、むしろ自覚的に作劇のなかに組み込むことが、作り手の誠実さや真摯さのひとつの証であり、同時にそうした「あいまいさ」は、歴史的な事象を後世に受け継ぐうえでも、重要なエッセンスと言えるのではないだろうか(※3)。
映画『遠い山なみの光』は、原作の「あいまいさ」を映画独自のかたちで昇華させたうえで、私たち日本人が戦争や原爆を考えるうえでの、ひとつの試金石を提示した貴重な作品である。
(※1)撮影監督であるピオトル・ニエミイスキは、「光」を意味のある視覚的要素として積極的に使用したことを特別番組「謎めぐる旅 ~映画『遠い山なみの光』を読み解く5つのヒント~」でのインタビューで語っている。
(※2)「吉田喜重 新作『鏡の女たち』を語る」『世界』2003年6月号、261頁
(※3)なお付言すれば、原作・映画ともに「あいまいさ」とは記憶力に起因する問題だけではなく、いわゆる自己欺瞞の問題にも関連することが示唆されるのだが、本稿ではその点への言及は控えておく。
『遠い山なみの光』
CAST&STAFF
監督・脚本:石川慶/原作:『遠い山なみの光』カズオ・イシグロ/小野寺健訳(ハヤカワ文庫)/出演:広瀬すず、二階堂ふみ、吉田羊、松下洸平、三浦友和/2025年/日本・イギリス・ポーランド/123分/配給:ギャガ/©2025 A Pale View of Hills Film Partners/公開中

