もうひとつは、物事の真偽について、はっきりと白黒を分けられない場面が、作中には少なからず現れる点である。たとえば、公園で万里子と木登りをしていた少年が、木から落ちるシーンがある。少年は万里子が自分を突き落としたと主張するが、その場面は直接画面には現れず、真相はわからない。

 この場面は原作通りではなく、原作では「降りてきた万里子がぎゅっと男の子の手を踏みつけた」という記述がある。つまりこのシーンは、原作よりも明らかに「あいまいさ」に比重を置いて編まれたものだとまずは判断できるだろう。

©2025 APale View of Hills Film Partners

二重のおぼろげな表現

 原作にない「あいまいさ」はほかにもいくつものシーンで確認できる。たとえば、うどん屋でのトラブル。佐知子が働いていたうどん屋で、仕事場にあらわれた万里子は「うどんを地面に叩きつけた」と男性客から罵声を浴びせられる。「本当なの」と佐知子は娘に問いただすが、こちらも画面に直接的には描かれることはない。また、やがて景子と名づけられるであろう赤ん坊をみごもっている悦子は、劇中で胎児が「少し動いたかもしれない」と口にする。しかし、これが悦子の主観にとどまるうえ、それへの言及が「少し」「かもしれない」と二重のおぼろげな表現をともなって現れること、また(これは原作通りではあるが)景子がついに動く姿として、ひいては生きた人間として映画に登場しないことからも、「あいまい」という印象は強まることとなる。

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©2025 A Pale View of Hills Film Partners

 同時に、こうした「あいまいさ」は、映画全体の世界観ともあいまって魅力的に映る。本作の「遠い山なみの光」というタイトルからは、遠くに見える淡い光、といった意味合いが想起されるが、本作においては、そうした光の淡さがたしかなアクセントを放っている。悦子が佐知子や万里子をともなって訪れる祭りの場にならぶ提灯の光、悦子が乗る路面電車から見える街の光、劇中で悲痛な告白をする悦子の横顔に差し込む夕陽……。夜のシーンを除いても、作中の光はどこか抑制的で、品格のある、謎めいた魅惑を映画全体へと与えることに奏功している(※1)。