当然ながら取材も一切シャットアウトした。《しかし入院中のマスコミの取材は度を越えていましたし、写真誌やワイドショーのカメラを止めるのに病室で苦労する日々でした》と、夫で作家の伊集院静は夏目が亡くなって25年後に記している(伊集院静「愛する人との別れ~妻・夏目雅子と暮らした日々」、『大人の流儀』講談社、2011年所収)。伊集院は彼女が病に倒れる前年に結婚していた。
「髪なんて、抜けてもすぐに生えてくるじゃない」
白血病の宣告を受けて、家族など身内は医師とともに彼女を“必ず生還させる”と覚悟を決めたという。当時はまだほとんど治療法は確立されておらず、日本での骨髄移植もほんの数例しかなく、その生存例も術後3年を経過していなかった。そのため治療は化学療法が主となる。
医師からは新薬も提示されたが、副作用が強く、3分の1の確率で心臓停止の可能性があり、また髪の毛も抜けると聞かされる。家族は相談の結果、新薬ではなく、副作用の穏やかな薬を選択した。だが、2度それで化学療法を受けたものの、異常に増えた白血球はどうしても減らなかった。
そこで改めて新薬を勧められ、母が夏目に「今度の治療は髪が抜けるが、どうする?」と確認すると、彼女は「髪なんて、抜けてもすぐに生えてくるじゃない。それに、(ドラマ)『西遊記』でのあたしの三蔵法師、色っぽかったでしょ」と笑いながら同意したという(小達スエ「娘・夏目雅子は、いまも旅に出ている」、『婦人公論』2000年5月7日号)。
「完全寛解したので退院できる」と告げられたが…
こうして3回目の治療のかいがあり、入院6ヵ月目の7月中旬には医師から「完全寛解したので秋には退院できる」と告げられた。これには家族や事務所の関係者も大喜びした。本人も、退院という目標が見えてきて、復帰に備えて、すっかりなまってしまった腹筋を鍛え直すため、ベッドの上で体操を始めていたという。
担当マネージャーによれば、彼女は同時に、入院してしばらく遠ざけていた芸能界の情報を知りたがり、いまどんな映画に人気があり、どんな人が活躍しているかと訊いてくるので、「あなたがいないあいだ、映画は全然当たってないわよ」と答えると、妙に安心していたらしい(内藤陽子「女優 夏目雅子を看取って」、『婦人公論』1985年11月号)。
肺炎を併発、容体が急変し帰らぬ人に
だが、その矢先、夏目は強い薬のせいで体力を消耗したのか、8月中頃に肺炎を併発し、熱は9月に入っても下がらなかった。病状は一進一退を繰り返した末、9月9日に容態が急変、意識が戻らないままとうとう帰らぬ人となる。
入院中、マスコミでは「危篤状態」という臆測も流れたが、実際には3回の集中治療の期間以外は、夏目は亡くなる直前まで普通と変わりない元気さであったと、彼女の没後にマネージャーが手記で明かしている(同上)。


