前述した通り、標茶町に住んでいるわけではない我々はアドバイザーであり、連続襲撃事件を起こしたクマを追いかける立場にはない。あくまで部外者なのである。

 地元の方々もはっきりとは言わないが、「こいつらは何しにきたんだ」という空気もなくはなかった。その時点で、標茶の鉄工所で大きな捕獲檻を新たに製作中だ、とも聞いたので、これ以上は我々の出る幕ではなかった。

 帰りの車中では赤石と「本当に獲れるかね」「あのデントコーン畑だと視界がきかないのが厄介だな」などと話しながらも、「まあ、冬が来る前には獲れるだろう」という程度に考えていた。

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「俺たちの言ったこと、聞いてくれたら獲れるべ」と赤石が呟いた。

 ところがその後、いつまで経っても、「牛を襲っていたクマが獲れた」という話は聞こえてこず、それどころか以後も牛の襲撃は続いたのである。

 いったい何がこのクマを“ 牛殺し”に駆り立てるのか――私なりに気にはなっていたが、部外者の立場では得られる情報も限られる。

 それでも、我々が現場を見た限りでは相手はあくまで普通のクマのはずだった。

 まさかそれから4年にわたり、このクマが人間の追跡の手を逃れ続け、やがて日本中を震撼させるほどの存在になろうとは、この時点では誰もわからなかった。

 

食べるために牛を殺すのなら、まだわかる。だが、襲っておいて食べていないのは、なぜなのか。

第2章 2021年・秋 追跡開始

 2021年8月5日、私と赤石はOSO18が最初に牛を襲った現場を訪れていた。

  私たちの住む標津町から車で1時間ほどの距離にある標茶町のオソベツ地区にあるT牧場である。

 この時点で既にOSOは49頭の牛を手にかけていたが、“連続殺人鬼(シリアルキラー)”というものは、その後の連続犯行を決定づける要素を、最初の事件現場に残しているものだ。

 そういう目で改めてOSOによる最初の犯行がいかにして行われたかを検証してみようと考えたのである。

最初の襲撃を検証する

 OSO18が初めて牛を襲ったことが確認された日、つまり2019年7月16日、標茶町のある釧路地方の天気は曇りだった。日中の気温は20度に届かなかったが、湿度は90%近く、ジメジメとした日だった。

 この日、T牧場の牧場主の息子であるAさんは、夕方になっても戻らない乳牛がいるのに気づき、牧草地を探し回っていた。

 高台になった放牧地から沢筋へと降りていく途中にある茂みに入ろうとしたときのことだ。地面に落ちていた枝に躓き、小さく声をあげた瞬間、茂みの中から黒い塊が飛び出した。それは一目散に沢筋を駆け下り、あっという間に姿を消した。牛ほどの大きさのクマだった。

 呆然としながらクマの飛び出してきた茂みを覗くと、牛の死骸が横たわっていた。 

 これが最初の事件が発覚したときの状況であり、OSOの唯一の目撃情報である。