朝廷に重視されてきたワケ

 笠置山地から切り出された木材の集積地となり、木津川の川湊から輸送されていたのだ。きっと、平城京や平安京の造成にも大いに貢献したに違いない。

 

 木津は、古代の朝廷にとっても極めて重要な土地だったのである。

 そしていま、その役割を受け継いでいるのが3路線が交差する木津駅なのだ。

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明治期は“まったくの田園地帯”だった

 駅の周辺、東口はニュータウンと駅舎の間に田園地帯が広がり、西口は古い市街地と比べて整然としてのどかさが勝つのは、1896年の開業時、やや東に離れた場所に設けられたからだろう。

 

 明治期のこのあたりの地図を見ると、木津駅周辺はまったくの田園地帯。市街地は駅の西側、奈良街道沿いを中心に広がるだけだった。

 そこに駅と旧市街を結ぶ一本道ができる。それが現在の駅前のメインストリート。2007年に現在の橋上駅舎になる前は、駅舎は西口にしか設けられていなかった。だから東口側は出入口もなく、開業当時からほとんど変わらずに田園地帯のままだったということになる。

 
 

 鉄道がなかった時代は木津のような都市と都市の間の中継地点の重要性が高かったが、高速輸送モードの鉄道が登場すれば、中継点の存在感は否応なしに低下する。駅ができたからといって、簡単に発展するほど話は簡単ではないのだ。

 木津駅の周辺が、現在のように開かれてきたのは戦後になってからだ。