「空気砲」などユニークな器具を使い、サイエンスプロデューサーとして教育現場だけでなく、YouTubeやバラエティ番組など第一線で活躍する米村でんじろうさん(70)。科学技術庁長官賞を受賞するなど科学教育・普及への貢献で高い評価を得てきたが、実は幼少期から学校の勉強は苦手で、大学受験では3浪を経験している。

 平成・令和の“マッドサイエンティスト”の知られざる青春時代について話を聞いた。(全3回の1回目/つづきを読む

米村でんじろうさんに、青春時代を振り返ってもらった ©山元茂樹/文藝春秋

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馬車が走り、ガスも通らない田舎で育った

――幼少期はどのような環境で育ったか教えてください。

米村でんじろうさん(以下、でんじろう) 私が生まれた千葉県の加茂村(現:市原市)は当時貧しい田舎で、戦前の雰囲気が色濃く残っていました。ガスなんか通っていなくて、ご飯は土間にあるカマドで、煮物などは七輪で作っていましたから。冷蔵庫もありません。ご飯はおひつに、おかずは棚に入れて保存してましたね。風呂も薪で沸かしていました。

――ご両親はどんなお仕事を?

でんじろう 定職というものはなく、その時々にできる仕事をやっていました。日雇いで道路工事をしたり、竹竿作りを手伝ったり。

 畑があったので農業もしていましたが規模は小さく、自分たちが食べる分を作る程度。どの家庭も貧しい時代でしたが、うちはとくに貧しい方でした。食べ物がなくて親戚に借りることもしょっちゅうでしたし。ただ、暮らしに困ったり惨めさを感じたりした記憶はありません。

「貧しい田舎」で育ったという。後列右端がでんじろうさん(写真提供=本人)

――そこから高度経済成長期に突入し、生活は変わりましたか?

でんじろう 小学校高学年くらいから、田んぼを耕すのに牛を使っていたのが、次第に耕運機などの機械に置き換わり、テレビ・洗濯機・冷蔵庫の「三種の神器」が入ってきて、暮らしが急激に便利になっていきましたね。

 それまで、荷物も馬車で運んでたんですよ。だいたいこの頃から、車を買う家庭が出はじめ、道路も砂利道から舗装されてアスファルトになりはじめた。当時、テレビでローラースケートを見て憧れて買ったんですが、まだ砂利道が多くて全然滑れなかったのをよく覚えています(笑)。