「空気砲」などユニークな器具を使い、サイエンスプロデューサーとして教育現場だけでなく、YouTubeやバラエティ番組など第一線で活躍する米村でんじろうさん(70)。科学技術庁長官賞を受賞するなど科学教育・普及への貢献で高い評価を得てきたが、実は幼少期から学校の勉強は苦手で、大学受験では3浪を経験している。
平成・令和の“マッドサイエンティスト”の知られざる青春時代について話を聞いた。(全3回の1回目/つづきを読む)
◆◆◆
馬車が走り、ガスも通らない田舎で育った
――幼少期はどのような環境で育ったか教えてください。
米村でんじろうさん(以下、でんじろう) 私が生まれた千葉県の加茂村(現:市原市)は当時貧しい田舎で、戦前の雰囲気が色濃く残っていました。ガスなんか通っていなくて、ご飯は土間にあるカマドで、煮物などは七輪で作っていましたから。冷蔵庫もありません。ご飯はおひつに、おかずは棚に入れて保存してましたね。風呂も薪で沸かしていました。
――ご両親はどんなお仕事を?
でんじろう 定職というものはなく、その時々にできる仕事をやっていました。日雇いで道路工事をしたり、竹竿作りを手伝ったり。
畑があったので農業もしていましたが規模は小さく、自分たちが食べる分を作る程度。どの家庭も貧しい時代でしたが、うちはとくに貧しい方でした。食べ物がなくて親戚に借りることもしょっちゅうでしたし。ただ、暮らしに困ったり惨めさを感じたりした記憶はありません。
――そこから高度経済成長期に突入し、生活は変わりましたか?
でんじろう 小学校高学年くらいから、田んぼを耕すのに牛を使っていたのが、次第に耕運機などの機械に置き換わり、テレビ・洗濯機・冷蔵庫の「三種の神器」が入ってきて、暮らしが急激に便利になっていきましたね。
それまで、荷物も馬車で運んでたんですよ。だいたいこの頃から、車を買う家庭が出はじめ、道路も砂利道から舗装されてアスファルトになりはじめた。当時、テレビでローラースケートを見て憧れて買ったんですが、まだ砂利道が多くて全然滑れなかったのをよく覚えています(笑)。

