彼らの大ブレイクを機に「タイタンは爆笑問題だけの事務所」という業界の評価は変わっていき、会社は新たな成長軌道に乗りました。第二期の幕開けは間違いなくこの2003年頃でした。社長としての私は、会社がこれまでとは異なる成長のフェーズに入ったことを喜ぶ一方で、1人の女性としての私が感じていた正直な気持ちは、「ここまで仕事が忙しくなったのだから、心置きなく不妊治療を休むことができる」という安堵感と解放感でした。私は不妊治療をいったん中断することを決めました。

爆笑問題の太田光(右)と田中裕二  ©タイタン

 このタイミングでしっかりと「不妊治療をやめます」と伝えないと、お義父さんはいつまでも私に「孫の顔を見たい」と言い続けることになります。それはお互いにとって不幸なことです。

 時間を取ってもらって、太田と2人でお義父さんにこれまでの不妊治療の報告に行きました。太田の実家に向かう私たちの手元には一つの書類がありました。それは太田の精液検査の結果で、データ上では精子の量が同年代の男性よりも少なく、お互いの年齢も考慮するとなかなか妊娠は難しいだろうという医師の見解も添えてありました。

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 太田家の居間に私と太田で並んで座ります。

「不妊治療を頑張ってきましたが、どうしてもできませんでした。それに検査もしたんですが、光さんの精子も少ないみたいなんです」

「うちの光に限ってそんなことはない!」

 これが第一声でした。憮然とした表情を浮かべたお義父さんは私の話を全然受け入れてくれないのです。でも、それ以上に驚いたのは、この手の家族会議ではいつも黙ってばかりの太田が毅然と言い返したことです。

「ちゃんと医者が検査したデータがあるんだよ。これは覆らないって。難しいものは難しいんだよ!」

「だったら仕事を抑えればいいじゃないか! まだわからないだろう」

「だから、もういろいろやったんだって」

「そうは言ってもだな……」

「それにうちは今、売れてるタレントが二人も出てきて、そっちもきちんと見ていかないといけないことくらい親父だってわかるだろう?」

 太田家では“超”が付くほど珍しい激しい応酬でした。本格的な親子喧嘩になりそうなタイミングで、援軍の義母も参戦してきました。

「あなたね、きちんと光の検査結果を見なさいよ。光代さんはあなたが孫の顔が見たいって、ずっと言い続けてきたから、頑張って何年も治療を続けてきたんでしょう。仕事だってこんなに一生懸命にやりながら。そういう努力をね、あなたは何にもわかっていないのよ!」

 お義母さんの渾身の一撃が見事に決まって、お義父さんは黙り込んでしまいました。とりあえず、その場は一件落着です。私たちの「最初」の不妊治療はそこで一区切りとなったのです。その頃、すでに私は30代後半になっていました。

社長問題! 私のお笑い繁盛記

太田 光代

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最初から記事を読む 「太田と結婚したことは後ろめたくて報告できなかった」太田光代が明かす、爆笑問題の“掟破りの独立騒動”と「干され」の真相

記事内で紹介できなかった写真が多数ございます。こちらよりぜひご覧ください。