黒柳徹子さんは音楽学校を卒業後、NHKの専属俳優としてテレビ業界へ。そこで知り合った文化人との思い出を新刊『トットあした』(新潮社)で語っている。30代のころ、4つ年上の向田邦子さんと親しくなり、その向田さんが突然亡くなって44年後の今も会いたくてたまらないという――。

※本稿は、黒柳徹子『トットあした』(新潮社)の一部を再編集したものです。

30代のころ、4歳上の向田と親しくしていた

それにしても、毎日毎日、向田さんの霞町マンションに通って、何時間も過ごして、よく、あんなにおしゃべりすることがあったな、といまでも思う。あの時間は、いったい何だったのだろう?

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当時は民放ドラマが最初の盛り上がりを見せていた時期で、私などにも、よく声がかかっていた。私は、渋谷のNHK、六本木のNET(いまのテレビ朝日)、赤坂のTBSでの仕事が多く、各局にまたがってドラマの掛け持ちもしていたので、ちょうど霞町(いまの西麻布あたり)の向田さんのお部屋は真ん中になるから、撮影と撮影の合間などに、ちょこっと遊びに行きやすかった、ということはあるだろう。

もうひとつには、まだ向田さんが、そんなには忙しい時期でなかったこともあるかもしれない。「いま、ちょっと忙しいの」と断られたり、打合せの来客があったりすることが、二、三度続けば、さすがの私も遠慮するようになっただろう。私が訪ねていくと、もちろん仕事をしている時も多かったけど、毛ほどもイヤな顔は見せなかった。

向田さんが仕事をしている間は、私は自分の出るドラマのセリフをおぼえたり、伽俚伽(かりか)はシャム猫なんだけど、〈名犬ごっこ〉と称して、紙のボールを投げて、じゃらしたりしていた。私は放っておかれても平気な人間だから、向田さんも気兼ねなく、机に向かっていたのだと思う。

「チョッちゃん」の母に言われたこと

彼女の仕事が一段落すると、おしゃべりの時間になる。のちに、向田さんが、まだ珍しかった留守番電話を自宅に取りつけた時(これはもう南青山へ引っ越したあと)、1分ずつしか録音できないテープに向って、私が連続9回、早口で吹き込んだあげく、「じゃあ、用件はじかに会ったときに話すわね」で終えた話をエッセイに書いて、それが有名になったから、ふたりでいるときも、私が一方的に、喋っていたと思われるかもしれないけど、向田さんもおしゃべり好きだった。