水源の池を訪ねると…
碑文谷池がある碑文谷公園を訪ねた。入口には都制が敷かれる前の1933(昭和8)年、東京市の時代に書かれた「碑文谷公園記」が掲示されており、「立會川の源をなし」と記されている。だが、現在の池の水は濃い緑色になっていて、とても湧水が水源とは思えない。
碑文谷池で営業している貸しボート場の管理をしている男性に聞くと、「池の周囲はコンクリートで固められたので、湧水は流れ込んでいません。水が足りなければ上水道で補給されています。下水から外に流れ出るのは豪雨の時ぐらい」という話だった。
目黒区の担当者も「宅地化が進む前は雨が地面にしみ込んで湧水が豊富でした。今は補給した水を浄化しながら使っています。二つの池とも立会川の水源ではなくなりました」と補足する。
もう一方の清水池に足を運ぶと、釣り堀のようになっていた。「ヘラブナが釣れます。任意の愛好者グループがあり、会費を集めて放流しているのです。私は大田区から毎日通っています」とリタイア世代の男性が楽しそうに笑った。釣りができる時間などのルールがあり、「近隣区でこうした池は珍しい」と目黒区の担当者は話す。
「水源」がなくなってしまった立会川。では、現在の起点はどこなのか。近所で尋ねても「さあ」と首を傾げる人ばかりだった。「ええっ、碑文谷池と清水池じゃないの?」と驚く人もいた。
目黒は江戸時代からタケノコの産地だった。数えきれないほどのスズメがねぐらにしていたことから「スズメのお宿」と呼ばれた竹林があり、今では区が公園化している。ここには江戸中期の建造と見られる民家が移築されていて、案内をしている80代の男性に聞くと、「住宅が隙間もなく建つ碑文谷ですが、私の子供の頃は畑しかありませんでした。当時は湧水もたくさんありましたね。それがもう本当に様変わりしてしまいました。地下化された立会川は碑文谷八幡宮の辺りが始まりですよ」と教えてくれた。
碑文谷八幡宮は旧碑文谷村の鎮守だ。境内に碑文石が保管されている。この石は近くを通る鎌倉街道に埋められていたといい、碑文を彫ってあったことから「碑文谷」という地名になったともされている。川が流れていたのは、やっぱり谷なのだ。







