わずか1時間ほどの雨でも一気に100mm以上降れば街が浸水してしまう。
そんな災害が2025年9月11日午後、東京都の23区南部を中心に発生した。浸水家屋は都内で1628軒(床上1223軒、床下405軒。9月26日時点の東京都のまとめ)。都市部が豪雨に襲われた時の恐ろしさを見せつけた。
今回、注目されたのは地下河川だ。
もとは川だったが、コンクリートで「ふた」をされ、暗渠になっている。陸上部分は道路や公園として使われているので、川には見えない。だが、低い土地であることに変わりはなく、一瞬のうちに水が集まり、川のようになってしまった。「やっぱり川が流れているのだと思った」。驚きを隠さない住民もいる。あれから1カ月が経過した。地下河川とはどのようなものなのか。そして、どのような被害があったのか──。(全2回の1回目/続きを読む)
なぜ立会川は“封印”された?
「流域」で被害が大きかった立会川は、わずか7.41kmの「河川」だ。目黒区を起点にして隣の品川区の勝島運河で東京湾に注ぐ。集水域は両区に加えて、世田谷区や大田区に及ぶ。潮の満干の影響を受ける河口部の0.75kmを除いては、6.66kmが暗渠化されており、ほとんどが地下に潜っている。
地下化されたのは「36答申」と呼ばれる報告書が発端だ。1961(昭和36)年、東京都市計画地方審議会の河川下水道調査特別部会が、東京の中小河川を暗渠化して下水道にするよう都知事に答申した。「川は要らない。下水道にしてしまえ」とは、高度経済成長期らしい発想かもしれない。当時の東京では急激な都市化と河川の汚濁で下水道整備が急務だった。3年後には東京五輪の開催も控えていた。なのに東京23区の下水道普及率は22%。未整備の区もあった。同年の隅田川花火大会は隅田川の水質悪化などのために中止されたほどだ。
ふたをされる前の立会川はどんな川だったのか。そもそも源流はどこなのか。都が2015年に策定した「立会川河川整備計画」によると、水源は目黒区の碑文谷池(別称・弁天池)と清水池だったとされている。
目黒区は武蔵野台地の東端に位置する。台地の先端では地下水が湧き、碑文谷池と清水池も湧水でできていた。一帯が畑だった頃には、かつての碑文谷村や集落共有の農業用ため池だった。





