実家はイチゴ農家、3人組アイドルグループで歌手デビュー
茨城県のイチゴ農家に生まれ育った永作は、高校3年だった1988年夏、フジテレビの深夜番組で女子高生の出演者を募集していたので応募し、合格する。テレビに出たのは思い出づくりのためで、1回きりのつもりだった。それが流れでその後も出演が続き、翌1989年12月には、同局のバラエティ番組『パラダイスGoGo!!』内のタレント養成講座「乙女塾」で共演していた佐藤愛子、松野有里巳と3人組アイドルグループ・ribbonを結成、歌手デビューを果たす。
ribbonは若い男性を中心に人気を集めたが、永作はクールに自分を見ており、《そんな簡単にいくはずがないと、歌手を職業にする自分を信用できなかった》という(『日経マガジン』2008年10月19日号)。じつはこのころ、芸能活動をしながら調理師学校に通っており、調理師免許も取得した。
仕事を嫌々やっているのは周囲にも見え見えだったのだろう、あるとき、マネージャーに明日の仕事へ持っていくものを訊いたところ、「やる気と前向きな気持ち」との答えが返ってきたことがあったという(同上)。
「吹っ切れた」“劇団☆新感線”の公演
そんな永作を大きく変えたのが、1993年に「劇団☆新感線」の公演『TIMESLIP 黄金丸』にribbonの3人で客演したことだった。ただし、このときも最初は嫌で嫌で仕方がなかったという。演出家のいのうえひでのりの指導も厳しかった。稽古の様子をレポートした雑誌記事によれば、まず、いのうえがセリフも動きもすべて実演してみせたうえで永作たちに繰り返させるのだが、《やればやるほど混乱は深まり、無茶苦茶なイントネーションになり、歩くとき手足がバラバラになる。(中略)彼女たちの声が裏返ってしまったころ、やっとOKが出た》という(松本多津「アイドルの冒険 劇団☆新感線の芝居に挑戦する」、『アサヒグラフ』1993年3月12日号)。
もともとやる気がないのに、ここまで追い込まれるのはきつかっただろう。永作は反発を覚えながらも稽古場に通っていたが、そこへ一転して演技に開眼する瞬間が訪れる。
《ある時段々腹が立ってきて、セリフに怒りが重なっちゃって。自分では『あ~ぁ言っちゃった、もういいや』って思っていたら、演出家に誉められた。“あれ? これでいいのか? しかも今、私、すごくすっきりして気分がいいわ!”って(笑)。そこで確かに吹っ切れましたね。それからは演出家の言葉も体に浸透してくるようになったし、体もちゃんと自分の意志で動かせるようになった。(中略)あまりにも嫌いなものって、好きになった瞬間の針の振れ方がすごい。勢いって大事だな、って》(『キネマ旬報』2003年10月下旬号)
この年にはソロ歌手としてシングル「My Home Town」でデビューもしている。翌1994年からは本格的に個人での活動を開始し、『陽のあたる場所』(フジテレビ)を皮切りにドラマにあいついで出演するようになった。

