クマはどのように人に襲いかかるのか。襲撃から生きのびた人々の証言を集めた書籍『クマから逃げのびた人々』(三才ブックス)から、秋田県の山中でツキノワグマに遭遇した男性の事例を紹介する――。(第2回)

写真=iStock.com/rai ※写真はイメージです - 写真=iStock.com/rai

30年前以上前の出来事

クマとの壮絶な死闘の末、生きて帰ってきた越中谷永一さん(当時31歳)は、しみじみと、「クマにとってみれば、自分の棲み処に勝手に入ってきた人間を快くは思わないでしょう」と言う。市街地の出没事例も増える近年のクマ事情に対しても、複雑な思いを抱いているという。

秋田県秋田市内で理髪店を営む越中谷さんがクマと遭遇したのは、1992(平成4)年の10月7日のことだ。

ADVERTISEMENT

学生時代を東京で過ごし、そのまま都内や神奈川県で働いていたが、実家の理髪店を継ぐために故郷へと帰ってきていた。

県庁所在地の秋田市だが、海側の市街地を除けば大部分は山地。越中谷さんも仕事の傍ら、山菜やキノコの採集、趣味の渓流釣りを楽しむために山に入ることが多かった。

山に入るときの定番装飾は、動きやすさ重視の服装に、刃渡り20センチメートルほどのナタと山刀。ナタは木枝をなぐのに役立ち、山刀は山菜取りから魚の捌きまで多用途に重宝する。

刃物2本セットで収納できる鞘は、越中谷さんの自作だ。もちろんクマ避けの鈴も忘れない。

胸のあたりに白く光る三日月

事件が起きた10月7日は、午前5時頃から秋田市最北部に位置する立石沢近辺に出掛けた。

立石沢は、住所こそ秋田市だが、かなりの山奥だ。新城川を遡り、上新城白山の集落までで約20~30分。さらにその先、白山林道を経て畑の沢林道へ。いずれも未舗装の道を30分以上進み、ようやく北ノ沢と立石沢の分岐点までたどりつく。

実は越中谷さんはこの立石沢周辺で、他の人には知られていない渓流釣りのポイントをもっている。

立石沢と北ノ沢の合流点から東にしばらく上った右手に、藪に隠れた沢があるのだ。かつて越中谷さんが、彼の父親と見つけた、地図には載っていない沢だ。駒頭ノ森方面から流れてくるその沢は、イワナが潜むのにうってつけの甌穴(おうけつ)が多数あり、渓流釣りの解禁時期となれば、越中谷さんは頻繁に釣りに出かけていた。