警察署には何回も「ヘリを飛ばせ」とせっついていたが…

 今日は是が非でもヘリコプターを飛ばして、宮下、近澤を大天荘テント場に吊り下ろしてもらい、消えた3人の2日目までのコースを入山地点にむけて逆行する計画を立てていた。出動の準備をととのえて待っていると雪は降りやんだものの、一面にガスが立ちこめてしまい、入山が危うくなってきたのである。

 4人が小屋に到着した直後から、主人の木村は豊科署に電話を入れ、何回も「ヘリを飛ばせ」とせっついていた。北アルプス南部遭難対策協議会は、槍、穂高をかかえる安曇村の村長が会長となり、豊科警察署、山小屋経営者、それに山岳救助に実績をもつ民間の東邦航空のヘリコプター・パイロットがネットワークを組み、ことにあたることになっていた。

 長野県警にもヘリコプターはあったが、機体が大きすぎて山岳地帯の低空飛行には不向きだった。そこで穂高や槍の谷々の乱気流を縫って長年飛行を続けてきた実績と技術を持つ東邦航空が、警察を通じて遭難者の家族や山岳会の要請を受け、飛ぶことになるのだった。

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 1987年、年明けとともに東邦航空ヘリコプターはフル回転となった。1月1日、槍ヶ岳北鎌尾根四峰で重傷を負った日大山稜会メンバーの救出、東天井(ひがしてんじょう)岳で凍傷を負った九州登高会メンバーの救出、1月3日は槍ヶ岳北鎌尾根での日本登攀(とうはん)倶楽部の重傷者救出と続いていた。

「オーイ、どうした、ヘリは!」ヘリ催促の電話を入れたが、らちがあかず…

 さらに年末から年始にかけておこった西穂2件、滝谷(たきたに)1件の遭難地点を捜索するために、東邦航空のヘリコプターの奪い合いになっていたのである。

 じつは1月5日、東邦航空のヘリが、西穂高岳捜索の足をさらにのらくろパーティのために延ばして、槍─東鎌尾根─常念のルートを飛んでいた。同乗した豊科警察署の山本巡査部長は、東邦航空の篠原パイロットとヘリから降りて、常念冬期小屋を捜したが、手がかりなしという知らせが木村小屋にも入っていた。

 1月5日の飛行捜索の及ばなかった大天井岳から、入山地点にむけて足で捜索するという宮下、近澤の計画書を手にして主人は、ヘリ催促の電話を入れたが、らちがあかなかった。1時間も経つと、主人は切迫した声で、「オーイ、どうした、ヘリは!」と、電話口にむかってどなっていた。そうこうするうちに、ようやく上高地では視界が広がっていった。