「このままでは生きている者も雪をかぶって駄目になる」

 しかし、ヘリが飛びたつ松本空港から梓川にかけての下界には、逆に霧が発生していた。捜索ヘリは何回か、その霧を突き抜けようと試みたが、視界不良のため梓川を越えることができず、断念して空港にもどるしかなかった。ヘリが空港にもどると下界は晴れ、一方また、山にはガスがたちこめて飛行は延期された。

 山と下界の天気のシーソーゲームに翻弄(ほんろう)されながら、のらくろ岳友会の4人は、「冬山10年の経験なら充分生きている可能性はある」という木村勝男の言葉に望みをたくし、木村小屋の外に出て、小屋に曲がり込む下山路の角に立った。

 ヘリコプターは飛べず、二重遭難を恐れて警察から入山捜索はやめたほうがよいと指導を受けた以上、残された方法は、ポツリポツリと現われる下山者から情報を集めることだけだった。

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 しかし正月も6日ともなると、年末からくり出していた登山者もほぼ下山しつくしており、やってくるかどうかわからぬ下山者たちを、足踏みして寒さをうちはらいながら待つことしかできない自分へのいらだちがつのってきた。

 山に入って捜し出すために登ってきた4人は、このままでは生きている者も雪をかぶって駄目になる、4人揃って足踏みでは能がない、他によい方法はないかと話し合った。

 その結果、ヘリ飛行のチャンスにかけて木村小屋に待機する宮下・近澤組と、警察情報を集めながら、下山口の中房温泉に近い豊科で捜索指揮にあたる杉本・片山組に分かれることになった。

「大喰岳で3人に出会った」という単独登山者の証言

 話がまとまったちょうどそのときのことである。河童橋方向から、小柄な登山者が歩いてきた。時計は午前10時を回っていた。その登山者は、疲れた様子もなく、ただ白い道に、ひょうひょうと姿を現わした。槍ヶ岳を踏んで下山してきた単独行者、原実は、4人の質問に答えて、つぎのように語ってくれた。

──1月3日の朝10時頃だったと思います。私が槍をめざして大喰岳を下りはじめたとき、3人パーティに会いました。3人のうちの先頭の1人が「東鎌をやってきた」と言っていました。

──どちらも耐風姿勢をとっていましたから、背丈や顔などはわかりません。私は下り、3人パーティは、大喰岳山頂にむかって登っていきました。

──はい、たしかに「東鎌をやってきた」と言っていました。

 東鎌尾根をたどり槍ヶ岳に登った3人パーティに、1月3日午前10時に大喰岳で出会った、という原証言は、その日続々とやってきた捜索隊員に、たちまち広まった。捜索開始時点でキイポイントとなったこの証言の周辺を追って、風雪の縦走路が、次第に明らかになってゆく。

次の記事に続く 「3人が下りてこないんだよ!」「えっ、どうして?」登山仲間が猛吹雪の冬山で行方不明に…ニュースで遭難を知った友人たちの“複雑な心境”